×

連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <5> 広島商入学

2年連続の甲子園出場

  ≪高校は自宅から近い広島商を選んだ≫
 自分が中学3年のとき、観音高と基町高にあった商業科が一緒になり広島商が復活したんです。1年ずれていたら、広島商へ行くことはなかった。巡り合わせです。校舎は現在の広島市工高の場所(広島市南区)にありました。野球部は3年生がいなくて、2年生が15人ぐらい。後にプロ野球に入った山本一義さんや上土井勝利さんがいました。当時、OBたちは母校復活に大騒ぎ。毎日のように学校へ来て、全校生徒に野球部の応援歌を歌わせていました。

  ≪高校2年(1956年)の夏、背番号7をつけて初めて甲子園に出場する≫
 出場のお祝いで、大阪の広島県人会が選手を中華料理店に連れて行ってくれたんです。当時はまだ食糧難で、1日1合のお米を甲子園に持参していた時代。中華料理といっても、みんなラーメンしか知らない。丸テーブルなんて初めてです。最初の方で食べ過ぎて、最後の料理が満腹で食べられなくて悔しかった思い出があります。試合も一義さんと上土井さんがいたのに初戦負け。自分たちは相当練習しないといけないという気持ちになったのと、「今度は中華を最後まで食べようぜ」とみんなで盛り上がりました。

  ≪新チームで主将に就任。広島大会、西中国大会と勝ち、2年連続で夏の甲子園出場を果たす≫
 (自分たちは)弱いと自覚していたから、2年秋にあった4泊5日の修学旅行も適当に理由をつくって行かずに、学校で練習していました。ただ、旅行から帰ってくると、男子と女子がみんな仲良くなっている。それが悔しくて、悔しくて。よく考えると、5日間多く練習したからといって急にうまくなるわけがないんですよ。

  ≪甲子園では苦しみながら決勝に進出。日本一を懸けた法政二(神奈川)との一戦で、その後の野球人生に大きな影響を与えるミスを犯す≫
 もし、負けていたら、広島商の監督をする機会は訪れなかったでしょう。自分にとっては生涯、忘れることができないプレーでした。

(2023年8月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ