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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <6> 日本一

今でも忘れぬミス犯す

  ≪法政二(神奈川)との決勝。三塁コーチを務めていた三回のことだった≫
 0―0の場面でした。外野に打球が抜け、一塁走者に本塁へかえれと思い切り腕を振っていた時です。気張り過ぎたのか、次第に腕が動かなくなったんです。一塁走者はその腕の動きを見て「三塁で止まれ」と判断してストップしてしまった。その後、もう一度走り始めて、生還できましたが、怒った円光寺(芳光)監督にすぐコーチを代えられました。それから5年くらいは、ミスした理由を監督に言い訳する夢を何度も見ました。だから、選手に言うんです。一つのミスが人生を左右する。ミスをしてもお前だったら仕方ない、と思われる選手になれと。

  ≪その後、左翼手として途中出場。3―1で勝ち、広島商として通算4度目の日本一に輝く≫
 優勝まで1アウトになった時は、自分が優勝ボールを取るんだと意気込んでいましたが、ライトに飛んだのかな。試合後、この大会後に新調されることが決まっていた優勝旗を持って、場内を一周できたのは爽快でした。

  ≪広島勢として、戦後初の優勝に地元は大いに盛り上がった≫
 当時は広島―大阪で飛行機が飛んでいて、準決勝に勝った後に帰りは飛行機だといううわさを聞いたんです。大喜びしていたら、結局、甲子園に来る時と同じ、蒸気機関車の「安芸」で帰ることになった。冷房がないから窓を開けておくと、トンネルで顔が真っ黒になる。それが嫌でね。がっかりした覚えがあります。

 当時は呉線回りだったので広商のOBが多く住んでいた呉駅では「優勝旗を降ろせ」の大騒ぎ。汽車の出発が5分遅れました。広島駅には2万人ぐらいが待ってくれていました。原爆が落ちてからまだ12年。ケロイドのある選手もいました。道もまだガタガタだったけど、「広島の子どもたちが日本一になった」と各町内会が競ってのぼりを持ってのお出迎えでした。何よりうれしかったですね。駅から学校まで、オープンカーに乗って帰りました。

(2023年8月9日朝刊掲載)

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