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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <7> 指導者の道

練習手伝ううち監督に

  ≪高校卒業と同時に選手として区切りをつけ、実家の洋服屋を継ぐための修業生活に入る≫
 関東の大学から誘いもありましたが、大学でやっていける実力がないのは自分でも分かっていました。実家を継ぐために、知り合いの繊維問屋に就職しました。午前5時起きのでっち奉公です。当時は生地の良しあしの差が大きくて見る目を養う必要があったからですが、半年で辞めました。その後、新宿にあった洋装学校へ1年通いました。ちゃんと通っていたけど、大人になるための猶予期間だと思って、遊んでいました。

 ≪広島へ戻ると、高校野球の審判を務めながら、母校の練習を手伝うように。コーチを経て1968年、監督に就任する≫
 57年に自分たちが優勝して以降、甲子園から遠ざかっていました。66年、畠山圭司監督が1人で指導していたので、同期と練習を手伝い始めました。68年、畠山監督が広島県教委の研修で県外に行くことになり、長期で部を離れることになった。(野球部OBでつくる)広商野球クラブの総会で「迫、やれ」となったわけです。考えてもみんかった。

 当時は大みそかも午後5時の納会まで練習して、元日は宮島の弥山で初日の出を見るのが恒例行事。1年365日練習していた時代です。遊ぶ時間もなくなるし、監督やって給料をもらうわけでもない。本当はしとうなかったです。

 ≪69年の選抜大会で監督として甲子園初出場。夏は広島大会2回戦で敗退する≫
 前年秋からほぼ負け知らずのチームだった。当時は、レギュラーを使ってずっと勝てばいいと思っていた。後で聞いたら、選手はいつ負けるかと内心びくびくしていたし、控えは「どうせ、レギュラーしか試合に出ないんだろう」と、チーム内で温度差があったみたいで。それからです。春の県大会は無理に勝たなくてもいい。新聞に載る夏の大会の展望も優勝候補じゃなくて、2番目か3番目に書いてもらうので十分だと。よっぽど強いチームでないと勝ち続けるのは無理だと知りました。

(2023年8月10日朝刊掲載)

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