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社説・コラム

『想』 塩冶節子(えんやせつこ) 私は彼らの代弁者

 長い間特別支援学校の寄宿舎教員として働いてきた。18年前の被爆60年。被爆教職員の会の席上で、「5歳の時に被爆した」と自己紹介すると、先輩から「幼い時の記憶は強烈だからこそ残っている。語っていってほしい」と勧められた。以来修学旅行生に体験を語っている。

 8月6日朝8時15分、広島市段原町(現南区)にあった自宅の天窓が光った瞬間、天井が崩れ、がれきに埋もれた。頭上に光が差し、母の手が伸びてきた時のことはいつも記憶の中をリピートする。縁側で新聞を読んでいた母が自宅にいた祖母と妹と私を助けてくれた。

 外に出ると家は崩れ、火の手が近づいていた。友だちの「ぼうやちゃん」のお母さんが「子どもを助けられない」と叫びながら比治山に向かっていた。建物疎開作業中に大やけどを負った中学生も手を前に上げてゆっくりと山の登り口に向かっていた。

 その日は登り口の植え込みで野宿した。闇の中から「お母さん」という声がした。翌朝はもう聞こえなかった。「亡くなったんよ」と母が言った。次の日は多門院に泊まった。そこには家族を失った人がたくさんいた。「あきちゃんは外で遊んでいて亡くなったんよ」。暗いろうそくの光の中で、あきちゃんのお母さんは言った。「ぼうやちゃん」とあきちゃんは、私の数少ない遊び友だちだった。

 小学2年の時、「クレヨンみたいな血を吐いて亡くなった」と、同級生の朝子ちゃんの死を、クラスメートから聞いた。被爆7年後には、2歳で被爆した妹の悦子が、急に高熱を出してあっけなく亡くなった。その日の朝「行ってくるね」と言葉を交わしたばかりだったのに。祖母と私は「私が代われば良かった」と号泣した。

 私が修学旅行生に体験を語ると、先生は子どもたちに感想を求める。母親が置いて逃げるしかなかった「ぼうやちゃん」の死に言葉が出ない子どもたち。今生きている子どもたちが核のない世界で生きていけるように私は語っていく。「ぼうやちゃん」たちの代弁者として。 (被爆教職員の会会員)

(2023年8月16日朝刊セレクト掲載)

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