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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <10> 如水館

県東部から甲子園狙う

  ≪1975年、夏の全国高校選手権ベスト4を置き土産に、8年務めた広島商の監督を退任する≫
 73年夏の日本一を達成した時には家の仕事の都合もあって、辞めるつもりでした。監督業で給料をもらうわけじゃない。日本一になった年は、遠征や春夏の甲子園、日本代表の監督もしたので家で寝たのは103日だけでした。周りに慰留されてもう1年やると、74年は広島大会2回戦で敗退。「負けたから辞めさせた、と言われるのは体が悪い」とOBに言われ、結局、75年までやりました。

  ≪その後は山口県内の高校や社会人野球チームで指導。転機が訪れたのは92年だった≫
 広島商の監督をしていた時の畠山圭司部長を通じて野球部を強化したい学校が広島にあるから、どうだろうかという話をもらいました。如水館(三原市)の前身である三原工です。翌年の5月、監督に就任し、学校で部員を募ると40人ぐらい集まった。「長い髪とたばこは駄目」と伝えたら、17人に減りました。ストッキングを前後逆にはくし、ファッションベルトをしてくる者もいましたね。最初は学校近くの工業団地にあるグラウンドで練習していました。

  ≪94年、三原工と緑ケ丘女子商が統合し如水館が誕生。野球部のグラウンドや寮が整備された≫
 グラウンドだけで2億円ぐらいかけてもらったでしょうか。私学は公立と金のかけ方が違うという印象でした。施設へのこだわりはそんなになかったですが、寮の便所の半分は和式にしてもらいました。洋式が増えたせいか、股関節周辺が硬い選手が多い。和式トイレで踏ん張ることで、自然と筋肉を鍛えるためです。ただ、選手にはものすごく不評でしたね。

  ≪環境が整い、能力の高い選手が集まってきた≫
 1年目の94年の夏は一つ勝ち、95年はシードの尾道商に勝ちました。3年目の96年は決勝へ行きました。でも、県東部の学校はなかなか甲子園に出たことがない。学校関係者の多くは「この人は、本当に甲子園へ連れて行けるんか」と半信半疑だったと思います。

(2023年8月16日朝刊掲載)

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