NPT準備委 揺らぐ礎石 <上> 国際社会の分断
23年8月13日
2026年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けてオーストリア・ウィーンで開かれた第1回準備委員会は、ビーナネン議長がまとめた総括文書をごく一部の国の反発で取り下げる前代未聞の幕切れとなった。世界の核軍縮・不拡散の「礎石」であるNPT体制は過去2回の再検討会議の決裂に続き、深刻な機能不全を露呈した。10日間の多国間交渉を振り返る。(宮野史康)
多国間交渉 合意難しく
準備委最終日の11日。昼休憩を終え、加盟国の政府代表団が議場に戻り始めると、ビーナネン議長は外交官たちに近づき、耳打ちを始めた。「議長総括を取り下げる。イランと協議した」。議論の記録の「消滅」を内々に告げた。
第1回準備委は各国の自由な意見表明を重視するため、核軍縮の方策などを示す合意文書を作らず、議長の権限で総括文書をまとめるのが慣例だ。会議報告に文書名を記して添付され、公式文書となる。会議報告は全会一致での合意に基づくが、事務的な内容のため、これまで採択されなかったことはない。
記述への不満
イランは10日に議長総括の草案が示された後、「加盟国は核合意に基づくイランの核に関する約束の不履行に懸念を表明した」との記述に激しく反発していた。核合意から一方的に離脱した米国は名指しされておらず「偏った記述」との不満を募らせた。
11日午前の討議では、まずロシアが、総括とともに示された勧告文書に反発。これに乗じ、イランは「NPT加盟国の名前を挙げて標的にしている。事実に基づかない差別的な文書には絶対に賛成しない」と総括を会議報告に入れないよう求めた。やはり名指しで指摘された箇所があったシリアが支持。中国も文書の取り扱いに懸念を表明した。
外交筋によると、ビーナネン議長は昼休憩中、イランの代表と個別に協議し、「総括を盛り込んだ会議報告には合意しない」との意向を聞き取った。ロシアの代表とも短く協議。事務的な会議報告すら採択できないという会議の決裂を回避するため、総括の取り下げと、勧告文書から考察文書への名称変更を決めたという。
「拒否権」 発動
議長がこうした判断を午後の討議で正式に伝えると、各国が相次ぎ発言。スイスは「1カ国が文書を消滅させる拒否権を発動できるという、あしき前例になる」と懸念した。議事は淡々と進み再開から1時間余りで閉幕。会議をそつなく仕切ってきた議長はあいさつで「何が重要な問題かが分かった。良い会議だった」と語った。
ただ、議長総括に「拒否権」を発動するという新たな手はNPT体制を揺るがす。2015、22年の再検討会議の決裂から立て直すどころか、慣例の文書さえ作れなくなった。安全保障を巡る国際社会の分断が深まり、核軍縮や核不拡散で合意を生み出す多国間交渉は一層困難になる。
閉幕後、各国の外交官たちの表情には困惑や疲労がにじんだ。海外のある中堅外交官は「全会一致の限界だ。やり方を変えなくてはいけないが一筋縄ではいかない。もっと良い外交をしないと」。別の中堅外交官は「午後4時過ぎに終わったのがせめてもの救い」と諦め顔で、荷物を片付けた。
(2023年8月13日朝刊掲載)
総括消滅「あしき前例」
多国間交渉 合意難しく
準備委最終日の11日。昼休憩を終え、加盟国の政府代表団が議場に戻り始めると、ビーナネン議長は外交官たちに近づき、耳打ちを始めた。「議長総括を取り下げる。イランと協議した」。議論の記録の「消滅」を内々に告げた。
第1回準備委は各国の自由な意見表明を重視するため、核軍縮の方策などを示す合意文書を作らず、議長の権限で総括文書をまとめるのが慣例だ。会議報告に文書名を記して添付され、公式文書となる。会議報告は全会一致での合意に基づくが、事務的な内容のため、これまで採択されなかったことはない。
記述への不満
イランは10日に議長総括の草案が示された後、「加盟国は核合意に基づくイランの核に関する約束の不履行に懸念を表明した」との記述に激しく反発していた。核合意から一方的に離脱した米国は名指しされておらず「偏った記述」との不満を募らせた。
11日午前の討議では、まずロシアが、総括とともに示された勧告文書に反発。これに乗じ、イランは「NPT加盟国の名前を挙げて標的にしている。事実に基づかない差別的な文書には絶対に賛成しない」と総括を会議報告に入れないよう求めた。やはり名指しで指摘された箇所があったシリアが支持。中国も文書の取り扱いに懸念を表明した。
外交筋によると、ビーナネン議長は昼休憩中、イランの代表と個別に協議し、「総括を盛り込んだ会議報告には合意しない」との意向を聞き取った。ロシアの代表とも短く協議。事務的な会議報告すら採択できないという会議の決裂を回避するため、総括の取り下げと、勧告文書から考察文書への名称変更を決めたという。
「拒否権」 発動
議長がこうした判断を午後の討議で正式に伝えると、各国が相次ぎ発言。スイスは「1カ国が文書を消滅させる拒否権を発動できるという、あしき前例になる」と懸念した。議事は淡々と進み再開から1時間余りで閉幕。会議をそつなく仕切ってきた議長はあいさつで「何が重要な問題かが分かった。良い会議だった」と語った。
ただ、議長総括に「拒否権」を発動するという新たな手はNPT体制を揺るがす。2015、22年の再検討会議の決裂から立て直すどころか、慣例の文書さえ作れなくなった。安全保障を巡る国際社会の分断が深まり、核軍縮や核不拡散で合意を生み出す多国間交渉は一層困難になる。
閉幕後、各国の外交官たちの表情には困惑や疲労がにじんだ。海外のある中堅外交官は「全会一致の限界だ。やり方を変えなくてはいけないが一筋縄ではいかない。もっと良い外交をしないと」。別の中堅外交官は「午後4時過ぎに終わったのがせめてもの救い」と諦め顔で、荷物を片付けた。
(2023年8月13日朝刊掲載)