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社説・コラム

『今を読む』 艦船研究家 奥本剛(おくもとごう) 戦争遺跡の保存と活用

まず現地に行き 感じよう

 「戦争遺跡」とは何か。明確には定義されていないが、私個人としては日本の旧陸海軍の施設の跡であり、戦争中に敵機の攻撃などで傷ついた民間建築物は「戦災遺跡」として分けるべきものだと考えている。

 戦後に自衛隊が所有し、いまだに使用されている戦争遺跡には、きめ細かく手入れされているものがある一方で、自治体、企業、個人の所有となったものもある。また自衛隊の所有でも老朽化や耐震性の欠如によって解体され、姿を消したケースもある。

 私は地域の現状を調査し、2009年に「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」(潮書房光人新社)を出版した。ただ7月に発売された第3版「令和版」までには、江田島市の地下重油タンク、呉市のアレイからすこじまの旧呉海軍工廠(こうしょう)電気部工場、三子島の資材置き場建物跡などが解体され、姿を消した。また5年前の西日本豪雨により、江田島市の大須山防空砲台は道が崩れたまま放置されている。

 その一方で、広島市の旧陸軍被服支廠(ししょう)が重要文化財に指定される見通しというニュースがあり、呉市音戸町のコンクリート製の曳航(えいこう)式油槽船が崩壊し、大穴が開いた箇所が修復されるという動きもあった。江田島市で最古クラスの木造洋館である旧海軍兵学校下士官集会所海友舎がNPO法人によって保存活用され、登録有形文化財に至った事例もある。また日露戦争の直前に建築され、戦後は放置状態だった江田島市の鶴原山保塁の整備が市の手で始まったと聞く。

 戦争遺跡をいかに残し、活用するのか。民間や個人では規模にもよるが、難しい面がある。国や自治体の場合は税金を使うため必ず費用対効果が求められる。先に述べた大須山防空砲台で考えると、一度きりの整備で放置状態となって元に戻ってしまった。

 日本遺産に登録するという方法もある。これもよく調査して申請しなければならない。呉市倉橋町の海軍亀ケ首発射場は四つある射場のうち、最大の東射場のみ日本遺産に追加登録した。北、西、松の浦という三つの射場は未登録であり、同じ施設なのに今後の保存に格差がついてしまった。

 保存に続く活用方法も、よく考えなければならない。広島の被服支廠にしても、保存活動の初期の頃にはショッピングセンターなどの案があったと聞く。これらは被爆建物である性質を考えればもってのほかだろうが、国や自治体からのバックアップがない時代には保存費用を捻出する苦肉の策として出たとも言える。

 このように保存のためには大変な費用をどうするのかと、いかに人々の目を向けさせ、活用できるのかが課題となる。

 わが市、わが町にある戦争遺跡がいつ造られたのか、どんなものなのか。それを知る地元の人も少なく関心も乏しい。江田島市の三高山保塁のように、有志による草木刈りのボランティア活動によって保存状態を維持しているところもあるが、被服支廠のように大成功になることは奇跡である。

 よほどの要素がない限りは観光地化もできないし、平和教育の場にするには保存の程度によって危険が伴うものもある。その危険を取り除くための保存工事も、よく考えなければ原形を損ないかねない。非常に難しい問題である。

 活用を考えるのであれば、少なくとも簡易で明確な解説文と、詳しく知りたい人のためのQRコードを付けた解説板を設置することがいいのではと思う。幾つかの自治体に提言したものの、残念ながら実現されていない。

 以上のような戦争遺跡の現状があっても少しでも調査記録し、情報を公開している人たちもいるし、私のように取材して書籍を出版している人たちもいる。このように失われつつある記録を調査し、残すことは有用である。

 呉・広島を舞台にしたアニメ映画「この世界の片隅に」の制作に私も協力した。2017年に日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞に輝いたことは戦争遺跡を守るために、いい追い風となった。「聖地巡礼」と称して訪れている人たちもいる。理由は人それぞれでいい。少しでも関心を持ち、そこにある戦争遺跡が何なのかを知り、現地に行き、目して感じることが大切と考えている。

 1972年生まれ。国立波方海技短期大学校卒。フェリー会社に勤めながら艦船の研究や戦争遺跡の調査を続ける。2009にハワイ沖の日米合同特殊潜航艇調査に参加。著書に「図説 帝国海軍特殊潜航艇全史」など。江田島市在住。

(2023年8月12日朝刊掲載)

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