戦後日本問う弱者の視線 栗原貞子さんの未発表詩86編
09年7月17日
■記者 伊藤一亘
原爆詩「生ましめんかな」で知られる広島市出身の詩人、栗原貞子さん(1913~2005年)の未発表詩86編。広島女学院大(広島市東区)に遺族が寄贈した文学資料から見つかった作品群は、被爆者の苦しみや悲しみを思い、平和を享受する戦後日本を問い続けた創作活動の軌跡を明らかにしている。また叙情性豊かな作品が女性詩人の横顔を映し出している。
「あの時、/水、水水と水を求めていた人々は/今、何を求めているのだろう。/生きのこった私らは/あやまちをくりかえさせぬために/何を言えばよい/あやまちをくりかえさせぬため/何をすればよい」(「こえ」から、1961年)
今回、未発表詩が見つかった創作ノートは、60年代以降の作品を書き留めたもの。戦後、アナキストだった夫・唯一さんとともに新聞を発行し、文芸欄に力を入れた栗原さんにとって、創作と社会活動は一体だった。ベトナム戦争の最中、米軍を支える日本の平和の危うさを感じ取っていたようだ。
その一方、ウーマンリブ運動をほうふつとさせる詩もあった。女性であり、主婦でもあった詩人の一面がのぞく。
「二十四才にもなっても結婚せぬ娘は/父や母の生活を見ていると 家は/日常の煉獄だと言う。/男たちは家族帝国主義の/権力を示すのに狂気になる。/おおマイホーム主義よ。/ままごとのねつ造された幻想よ。」(「女が夜叉になるとき」から、69年)
原爆投下直後の広島を描いた小説「夏の花」などで知られる作家、原民喜(1905~1951年)の詩碑を題材にした二つの詩も見つかった。
「赤く焼崩れた城壁の/花崗岩は風化して/はげ落ちた曼荼羅となりそれを背負って/流人の墓のようにひっそり/立っている碑/石を投げられて月面のように荒れ/もう詩銘もよみとれない/ひだるい空が頭上にかかり/渇いた空が頭上にかかり/今も碑の中から/『水ヲ下サイ』/『アア 水ヲ下サイ』/とかぼそいこえがきこえて来る。」(「花幻の碑」から、66年)
1960年、栗原さんが中国新聞に寄せた「広島の文学をめぐって アウシュビッツとヒロシマ」の一文から第2次原爆文学論争が起こった。原爆をめぐる問題について「文学が正面から取り上げるべきではない」といった広島の他の文学者の否定的な意見に、栗原さんは強く反発していた。
広島大名誉教授の水島裕雅さん(66)は「死してなお傷つけられる民喜の碑に、世に受け入れられない詩人の運命を感じ、共感したのではないか」と想像する。
創作ノートには、晩年までの作品が書き留められていた。
「私をとりもどすために/私はゆっくり呼吸し/空洞を埋めねばならない/みなぎる力を待たねばならない/何かに憑かれたように走りつづけた私は/燃えつきたものをとりもどすまで/私一人の時間が必要だ/どんな誘いにも 私は動かない」(「喪失か回復か」から、1993年)
長年の平和運動の中、右翼の脅迫状や脅迫電話にも屈しなかった栗原さん。だが、老いと病に気弱になりそうな自身を、奮い立たせようとした日もあったのだ。
原爆投下直後の廃虚で新しい命が誕生した実話を基にした「生ましめんかな」は、単なる戦争詩ではなく、「死の中の生の誕生」をうたったヒューマニズムが大きな感動を呼んだ。
「栗原さんの詩の強さの根底には、常に弱者の視点を忘れない人間愛があった」と水島さん。それゆえに、愛する人たちを脅かす戦争を強く憎み、創作の原動力となった。今回の未発表詩からも、そんな栗原さんの思いが強く伝わってくる。
わたしたち
眼から口から耳から炎を噴き出し
燃えながら
合掌している一人の僧。
環になってかこんでいる男も女も
としよりもこどもも同じ炎の色に染まって合掌している
化学爆弾に焦げた樹木の
黒いボロボロの葉が炎に照らし出され、
稲田もいちめん黒くやけ果てた。
焼かれたことはあるが
自らを焼いて抵抗したことはない
いつも受身で
ずるずる引きずられて来てしまった
私たち。
今も日本列島に基地点々。
ベトナムの死臭をまきちらしながら
原子力潜水艦が入港し
飢えた日本のカラスが迎える
黒い船体。
徴兵カードを焼いたことがあったか
わたしたち。
天皇のために死んだことはあっても
いくさに反対して死んだことはない。
へいわ、
へいわ、
泡のように軽くとばされている日本の平和。
その底深いところに
重く沈殿した死者たち。
黒い液汁のように焼かれた無人都市。
未発表詩86編のうち41編を、広島女学院大が小冊子「生ましめんかな」=写真=にまとめた。A5判、68ページ。希望者に送料自己負担で配布する。冊子の内容は同大図書館のホームページでも見られる。図書館Tel082(228)0392。
(2009年7月14日朝刊掲載)
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「あの時、/水、水水と水を求めていた人々は/今、何を求めているのだろう。/生きのこった私らは/あやまちをくりかえさせぬために/何を言えばよい/あやまちをくりかえさせぬため/何をすればよい」(「こえ」から、1961年)
今回、未発表詩が見つかった創作ノートは、60年代以降の作品を書き留めたもの。戦後、アナキストだった夫・唯一さんとともに新聞を発行し、文芸欄に力を入れた栗原さんにとって、創作と社会活動は一体だった。ベトナム戦争の最中、米軍を支える日本の平和の危うさを感じ取っていたようだ。
その一方、ウーマンリブ運動をほうふつとさせる詩もあった。女性であり、主婦でもあった詩人の一面がのぞく。
「二十四才にもなっても結婚せぬ娘は/父や母の生活を見ていると 家は/日常の煉獄だと言う。/男たちは家族帝国主義の/権力を示すのに狂気になる。/おおマイホーム主義よ。/ままごとのねつ造された幻想よ。」(「女が夜叉になるとき」から、69年)
原爆投下直後の広島を描いた小説「夏の花」などで知られる作家、原民喜(1905~1951年)の詩碑を題材にした二つの詩も見つかった。
「赤く焼崩れた城壁の/花崗岩は風化して/はげ落ちた曼荼羅となりそれを背負って/流人の墓のようにひっそり/立っている碑/石を投げられて月面のように荒れ/もう詩銘もよみとれない/ひだるい空が頭上にかかり/渇いた空が頭上にかかり/今も碑の中から/『水ヲ下サイ』/『アア 水ヲ下サイ』/とかぼそいこえがきこえて来る。」(「花幻の碑」から、66年)
1960年、栗原さんが中国新聞に寄せた「広島の文学をめぐって アウシュビッツとヒロシマ」の一文から第2次原爆文学論争が起こった。原爆をめぐる問題について「文学が正面から取り上げるべきではない」といった広島の他の文学者の否定的な意見に、栗原さんは強く反発していた。
広島大名誉教授の水島裕雅さん(66)は「死してなお傷つけられる民喜の碑に、世に受け入れられない詩人の運命を感じ、共感したのではないか」と想像する。
創作ノートには、晩年までの作品が書き留められていた。
「私をとりもどすために/私はゆっくり呼吸し/空洞を埋めねばならない/みなぎる力を待たねばならない/何かに憑かれたように走りつづけた私は/燃えつきたものをとりもどすまで/私一人の時間が必要だ/どんな誘いにも 私は動かない」(「喪失か回復か」から、1993年)
長年の平和運動の中、右翼の脅迫状や脅迫電話にも屈しなかった栗原さん。だが、老いと病に気弱になりそうな自身を、奮い立たせようとした日もあったのだ。
原爆投下直後の廃虚で新しい命が誕生した実話を基にした「生ましめんかな」は、単なる戦争詩ではなく、「死の中の生の誕生」をうたったヒューマニズムが大きな感動を呼んだ。
「栗原さんの詩の強さの根底には、常に弱者の視点を忘れない人間愛があった」と水島さん。それゆえに、愛する人たちを脅かす戦争を強く憎み、創作の原動力となった。今回の未発表詩からも、そんな栗原さんの思いが強く伝わってくる。
わたしたち
眼から口から耳から炎を噴き出し
燃えながら
合掌している一人の僧。
環になってかこんでいる男も女も
としよりもこどもも同じ炎の色に染まって合掌している
化学爆弾に焦げた樹木の
黒いボロボロの葉が炎に照らし出され、
稲田もいちめん黒くやけ果てた。
焼かれたことはあるが
自らを焼いて抵抗したことはない
いつも受身で
ずるずる引きずられて来てしまった
私たち。
今も日本列島に基地点々。
ベトナムの死臭をまきちらしながら
原子力潜水艦が入港し
飢えた日本のカラスが迎える
黒い船体。
徴兵カードを焼いたことがあったか
わたしたち。
天皇のために死んだことはあっても
いくさに反対して死んだことはない。
へいわ、
へいわ、
泡のように軽くとばされている日本の平和。
その底深いところに
重く沈殿した死者たち。
黒い液汁のように焼かれた無人都市。
未発表詩86編のうち41編を、広島女学院大が小冊子「生ましめんかな」=写真=にまとめた。A5判、68ページ。希望者に送料自己負担で配布する。冊子の内容は同大図書館のホームページでも見られる。図書館Tel082(228)0392。
(2009年7月14日朝刊掲載)
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