×

連載・特集

緑地帯 二口とみゑ 明子さんのピアノと出会って③

 河本家との近所づきあいは続いたが、1986年にご夫婦はご高齢のため、広島市から横浜市の次男宅へ転居された。源吉さんは89年に101歳で、シヅ子さんは2005年に103歳で旅立たれた。河本家の墓は、三滝(広島市西区)にあった河本邸から見える墓園に立っている。墓石には河本夫妻の名前と並んで、「昭和20年8月7日 原爆死 河本明子 19歳」と刻まれている。生前シヅ子さんは「あなたと娘は広島女学院の同窓だったのね。明子は原爆で亡くなったの」とだけ話された。私もそれ以上は聞けなかった。

 04年、空き家だった河本邸が解体され、残されていた明子さんの遺品は原爆資料館に寄贈された。その中に明子さんの日記21冊と父源吉さんの育児日記があった。私は原爆資料館に通って読み進めていった。

 1926年、ロサンゼルスの病院で生まれた明子さんは、6歳からピアノを習い始めた。7歳で日本に渡り、広島女学院付属小学校で女性宣教師のクーパーさんにピアノを習った。市女(現舟入高)時代の日記に「沓木(くつき)先生のところへ ピヤノのお稽古にいきました」という記述を見つけたときは、驚いた。私が昔、ピアノを習ったのも沓木良之先生だったのだ。

 日記は明子さんが19歳で原爆で亡くなる前年の7月13日で終わっていた。彼女の生い立ちと、多感な少女時代の夢や悩みを知り、私はその思いを引き受けずにはいられないような気持ちになった。(HOPEプロジェクト代表=広島市)

(2023年8月17日朝刊掲載)

年別アーカイブ