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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <11> 模索

全国で勝つ 指導新たに

  ≪如水館の監督に就任して5年目の1997年夏。待望の甲子園出場を果たす≫
 当時は、県東部の学校がなかなか甲子園に行くことがなかったので、(前身の)三原工のOBや学校の職員の人はそりゃ、喜んでくれました。最初の年は、甲子園に行くためのOBの寄付金もすごかった。ただ、そこから3年連続で出たもんだから、事務室の職員さんからも「監督、(甲子園出場の準備で)夏休みがなくなります」って言われて。甲子園に出たら出たで、大変なんだと思いました。

  ≪甲子園出場は重ねたものの、1大会で1勝するのがやっと。初戦敗退した2006年の選手権後、田中将大(楽天)を擁して、同大会で準優勝した駒大苫小牧(北海道)を訪ねた≫
 05年に日本代表の監督を務めた縁もあって、田中と当時の香田誉士史監督を訪ねました。駒大苫小牧は04、05年の選手権を連覇し、06年は準優勝。どんな練習をしているのか、興味がありました。

  ≪頭ごなしの指導ではなく、監督が一歩引き、選手の自主性を尊重する指導に刺激を受けた。指導法を模索し、迎えた11年夏の甲子園。2試合でサヨナラ勝ちするなど、3試合連続で延長戦を制して準々決勝へ勝ち進む≫
 当時のエースは、先発すると失点するのに、途中から投げると別人のようにいい投球をする。話を聞いたら、どうも先発向きの性格ではない。だから先発は他の選手に任せ、途中から投げるパターンにしました。攻撃も二塁走者が盗塁できると思ったら、各自の判断に委ねていました。3回戦の能代商(秋田、現能代松陽)戦では、足の遅い選手だったけど、ノーサインで走ると捕手の悪送球を誘って生還。勝利につながりました。

  ≪如水館では春1度、夏7度甲子園に出場。最高成績はこの夏のベスト8だった≫
 広島商のときは、OBの先輩方が対戦相手の情報を集め、分析した資料を参考にして采配を振るえていた。如水館では、自分がその作業をほぼ1人でやらないといけなかった。全国で勝つには限界があったのかなと思います。

(2023年8月17日朝刊掲載)

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