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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 岩崎誠 生誕100年の司馬遼太郎

「原爆」なぜ書かなかったか

 司馬遼太郎の生誕から今月7日で100年となった。その足跡に思いをはせようと東大阪市の司馬遼太郎記念館を訪れた。1996年の死去当時の書斎が残り、大書架を埋め尽くす蔵書を見上げると膨大な知識量が実感できる。

 思えば作品を初めて手にしたのは中学時代だった。長州藩出身の近代軍制の祖、大村益次郎の生涯を描く「花神」である。それを原作とする77年のNHK大河ドラマを毎週見つつ文庫本を読みふけった。前半の一節に受けた強烈な印象は忘れられない。「この瞬間、見えざる場所で封建制というものが崩壊したといっていい」

 大村が仕えた宇和島藩が黒船に倣い、蒸気機関の軍艦を造るに当たって手先の器用さで知られる貧しい職人を登用する場面だ。歴史に埋もれた庶民に光を当てる大胆な視座を象徴する一つだろう。

 手元にある「街道をゆく」(71~96年)を読み返した。週刊朝日の看板企画だった歴史紀行では、中国地方を幾度も訪れている。長州路、砂鉄のみち、芸備の道、因幡・伯耆のみち…。ふと疑問を抱いた。広島市から三次市にかけての79年の取材の旅では司馬一行は広島駅を降り、すぐタクシーで北へ向かっている。なぜ平和記念公園へ足を向けなかったのか。

 美学者で、広島大大学院人間社会科学研究科教授の桑島秀樹さんと語り合った。3年前に「街道」シリーズを読み解く著「司馬遼太郎 旅する感性」(世界思想社)を出し、その中で「芸備の道」についても論考している。

 日本人の祖型を考察していた司馬は日本海文化圏、出雲文化圏としての広島に光を当てたかったのだという。広島の紀行では毛利元就の生い立ちや安芸門徒の土壌、三次盆地の古墳や製鉄文化などを丹念にたどったが、「意図的に原爆を避けたのではないか、とも感じる」と桑島さんは言う。

 そう推測できる理由の一つとして、桑島さんは司馬が米国の文明に肯定的な評価をしていた点を指摘する。多民族の市民社会の在りようであり、移民が技術を持ち寄ってくる国のかたちである。「原爆の開発と投下だけ切り取って論じるのは彼のそれまでの文明観から難しかったのでは」。同じ街道シリーズでは、長崎のキリシタンの歴史をたどる旅においても平和公園は行っていない。

 一方で沖縄・先島諸島の旅では沖縄戦の悲惨さにもしっかり紙幅を割いている。仮に広島・長崎でもう少し時間を取って被爆の実態に接していたとすれば、司馬は何を書いただろう。負の遺産としての核兵器に全くの無関心だったとは思えない。例えば日露戦争を描く「坂の上の雲」では余談として太平洋戦争に話を飛ばし、広島への原爆投下に少し触れている。

 もとより司馬が昭和前期、とりわけ先の大戦について小説を書かなかったことはよく論じられる。自身は学徒出陣し、旧満州(現中国東北部)を経て、栃木の戦車部隊で終戦を迎えた。その縁から、日本の戦車隊がソ連軍に大惨敗した「ノモンハン事件」は資料を集めながら一行も書かなかった。

 あの戦争の時代を司馬はどう見ていたか。没後の評論はおおむね一致する。戦争を嫌い、道を誤らせた陸軍をとりわけ憎み、なぜ日本はばかな戦争をしたか考え続けた、と。昭和に入って日本が暗転した原因を歴史の中に探り、特に幕末から明治の時代とそこに生きた人間に輝きを見いだした―。

 近代化とともに対外戦争に手を染め、矛盾にも満ちた明治日本への見方が甘いとの批判はあるが、無謀な戦争に走った昭和の指導層への厳しい視線はうなずける。

 司馬遼太郎記念館の会誌(2010年冬季号)で、ノンフィクション作家の保阪正康さんの一文を見つけた。司馬が自らの史観で昭和期をなぜ書かなかったかを論じている。「実は書かなかったそのこともまた『ひとつの作品』だと考えるべきではないか」。つまり次代の宿題として残した、と。

 司馬が一貫して描いてきたのは歴史の中の人間である。あるいは将来、広島や長崎の惨禍を生き抜く人物を主人公に、司馬が書かなかった原爆を正面から描く骨太な物語が、世に出るかもしれない。絵空事ではなく被爆の現実を直視し、司馬が常にそうしたように徹底的に文献を読み込んだ上で発想の翼を広げる手法で―。そんなことを、ふと想像してみる。

(2023年8月17日朝刊掲載)

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