×

社説・コラム

『書評』 励起 仁科芳雄と日本の現代物理学 伊藤憲二著 「原爆開発」科学者の苦悩

 本文と年譜で千ページに及ぶ。だが1週間ほどで読破できたのは、パズルのピースを埋めるような醍醐味(だいごみ)があったからだろう。戦時下の「ニ号研究」つまり「原爆開発」で知られる岡山人、仁科芳雄の60年の生涯とは何だったか。おびただしい彼の手紙のカーボンコピーを、著者の科学史家伊藤憲二が再発見したことで浮き彫りになっていく。

 評者は10年前、旧広島高等師範学校付属中「科学学級」の1期生だった人たちに取材したことがある。彼らは「アメリカニ勝ツ、新シイ発明」を求められ、物理学者の恩師に「間もなく大きな実験があるだろう。一つの都市を焼き尽くす実験だ」と聞かされていた。彼らから仁科の名前も出たが、あの時代の背景にあったものを本書が解き明かしてくれたことにもなろう。

 日本の「原爆開発」については後から記憶が上書きされたり、何らかの意図によって情報操作されたりした疑いがあると著者は記す。とりわけ米国の原爆開発―マンハッタン計画からの類推で語られてきたのではないかとみる。

 そもそも仁科が陸軍の要請で手がけたのは「戦時核エネルギー研究」だ。核から動力を得るその研究が、戦局の悪化に伴って決戦兵器の開発と受け止められてしまうが、困惑しつつも身命を賭するしかないと手紙に書いている。敵国英国の首都ロンドンを「マッチ箱一つ分のウランで壊滅させる」といった言説さえ世間では独り歩きしていた。

 当時の仁科は弟子が兵役を免れるよう手を打っていた。その結果、陸軍に借りをつくり、軍事研究に深入りせざるを得ない。一方で彼は「南方で将兵が苦労しているのに見通しも立たない研究に予算を使っていいのか」と陸軍の担当者にこぼしてもいた。米国が広島に原爆を投下した翌日には「文字通り腹を切る時が来た」と弟子に手紙を書く。今の感覚では理解し難いところもあるが、一人の科学者は確かに苦悩していたのだ。

 仁科は戦後の日本学術会議創設にも重要な役割を果たした。だが生前に仁科が成し遂げたことより仁科という「きっかけ」の方が重要だと著者は結んでいる。これが量子力学の専門用語「励起」の意味だと読み終えて納得する。 (佐田尾信作・客員特別編集委員)

みすず書房・上巻5940円、下巻6600円

(2023年8月20日朝刊掲載)

年別アーカイブ