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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <13> 兄弟対決

何度も実現 今なお現役

  ≪6歳下の弟守昭氏も野球人だ。広島商から慶応大を経て、三菱重工広島へ入社。1979年には、監督として、都市対抗大会で初出場初優勝の偉業を達成している≫
 守昭は中学から野球を始めた。自分が広商の主将で日本一になったときは、まだ小学6年生でした。甲子園出場はなかったけど、三菱の監督で日本一になった。その前年におやじが病気で亡くなっていたから、「もう1年生きていたら、守昭の優勝が見られたのに。喜んだろうにな」って、兄弟で話をした覚えがあります。

  ≪守昭氏は2000年8月、広島商の監督に就任する≫
 弟から「広商の監督になる」と聞いたときは、広商OBが「如水館ばかりが甲子園に出て面白くない」と、守昭を選んだのかと思いました。前年まで選手権は3年連続でうちが出ていましたから。

  ≪初対戦は01年の夏の広島大会準決勝。その後、守昭氏が監督を務めた新庄時代を含め、何度も兄弟対決を繰り広げることになる≫
 初対戦は3―1で勝ちました。僕にやりづらさはなかったです。監督のタイプが全く違うので。守昭は僕と違って頭がいいし、三菱でも副支社長を務めたほどの人間。都市対抗で優勝し、人さまに言えるだけの野球理論を持っている。でも最初の頃はずっと、自分が勝っていたんじゃないかな。

 弟に初めて負けたのは、新庄が初めて夏の甲子園に出た15年。準々決勝で対戦しました。新庄には日本ハムに入った堀(瑞輝)君がいて、甲子園に出ても勝負できるチームだなと。空の上からおやじとおふくろが「そろそろ守昭に勝たしてやりんさい」と言っているような気もしたんですね。

  ≪普段は「兄貴」「守昭」と呼び合う。21年4月から守昭氏は福山で監督を務める≫
 兄弟っていいですよ。練習試合の日程がお互い空いていたら、気軽に頼めるから。自分がまだ監督をしているから、守昭も続けているのかもしれないけど、この年齢でありがたいことです。必要とされていなかったら、できないわけですからね。

(2023年8月22日朝刊掲載)

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