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社説・コラム

社説 [地域の視点から] 加藤友三郎 没100年 軍縮外交 今こそ語り継ごう

 広島県出身で初の首相になった加藤友三郎(1861~1923年)が死去して、きょうで100年になる。

 広島の比治山公園に加藤の銅像の台座が残る。被爆10年前に建立の像は戦時下の金属供出で失われ、台座だけが原爆の閃光(せんこう)を浴びた。

 その功績に光を当てる行事が広島県内で相次ぐ。首相就任に先立ち、第1次世界大戦後の国際秩序を定めるワシントン会議(21~22年)で日本全権となり、自国の軍縮を決断した加藤の手腕が、とりわけ再評価されている。

 1世紀を経た日本は、安全保障環境が悪化する中で防衛力を大幅に強化しようとしている。軍備のやみくもな増強よりも協調外交を重んじた加藤の政治姿勢は、今だからこそ重みを持つはずだ。

 外交手段で戦争を避けることが「国防の本義」―。ワシントン会議のさなか、海軍大臣でもあった加藤は随員にそんな信念を伝えている。

 当時から日本の仮想敵は米国であり、外交と国防のバランスを重んじる加藤は協調を優先して米国が求めた海軍の軍縮に応じた。米英の6割まで日本の主力艦を抑える軍縮条約に、加藤は足元の反対を押し切って調印する。

 首相になった後も陸海軍の大胆な縮小を断行し、ロシア革命(17年)の混乱に乗じたシベリア出兵も中止してソ連との協調に道筋を付けた。

 膨らむ一方だった軍事費の負担を減らし、財政難に向き合いつつ産業や教育の振興を図るが、病気がちの加藤は在任1年2カ月、首相のまま没する。8日後に日本を襲った試練が関東大震災だった。

 長引く経済の低迷、軍部にくすぶる軍縮への不満を背景に、日本の協調外交は挫折。満州事変(31年)を経て世界で孤立し、長く暗い戦争の時代を迎える。「加藤がもっと長生きしていれば違う道があった」と見る研究者もいる。

 その加藤も完全無欠ではなく、軍縮以外の政策は道半ばに終わる。それでも大局的な視座で世界の先を見据え、協調による懸案の解決を目指した姿を、現代の政治家たちは見習うべきではないか。

 ただ被爆後、平和都市として歩む古里では加藤への関心は高くなかった。軍人として立身出世を遂げた経歴から語りづらい空気もあったようだ。戦前に生誕地に建立された記念碑も「旧軍関係物」として長い間、地中に埋められた。

 15年前に民間の手で新たな加藤の銅像が広島の中央公園広場に建立された。今はサッカースタジアム建設で撤去され、遠からず再除幕と聞く。平和の理念を広島から発信していく上でも、郷土出身の宰相が世界の動乱期に果たした役割を語り継いでいきたい。

(2023年8月24日朝刊掲載)

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