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軍都広島の歴史と戦争の犠牲 今に 旧陸軍運輸部 合同葬の記録 南区の千暁寺が保管 戦死者のため8年間で45回

 宇品地区(広島市南区)に拠点を置いた旧陸軍運輸部(後に船舶司令部、通称暁部隊)が日中戦争や太平洋戦争の戦死者のため、8年間に第45回まで行った「合同葬」の記録簿を、千暁寺(同)が保管している。中国大陸や南方へ兵員を送っていた軍港拠点が、遺骨となって戻った軍人、軍属の死没者を迎える地でもあったさまを記す。「軍都広島」の歴史と悲惨な戦争の実態を読み取ることができる資料だ。(小林可奈)

 「昭和十七年…一月三十日 陸軍運輸部 第二十一回合同葬 陸軍伍長 雫義実氏外 六十二柱」。縦約23センチ、横約17センチの茶色く変色した冊子には、合同葬や通夜の日付、遺骨の総人数などが筆で書かれている。始まったのは85年前の1938年10月。日中戦争開戦の翌年だ。終戦後、船舶残務整理部により第45回が行われた46年9月までを記す。

 前住職の日下善暁さん(2006年に78歳で死去)の手記などによると、合同葬は陸軍運輸部長が地区内にある千暁寺に指示し、住職が先々代の教譲さん(81年に89歳で死去)だった時期に始まった。

 弔われたのは暁部隊などに所属する軍人や軍属。「遺骨帰還三十八柱 各宗委員出迎へ」。遺骨を本堂に安置し、本願寺広島別院の輪番や各宗派の寺の住職が各回10人ほど奉仕活動として出仕したという。

 遺骨は第4回だった39年3月の48体から増加傾向となり、太平洋戦争中の43年8月は167体に。太平洋戦争の後期には、遺骨の代わりに砂や小石が入った骨箱も。敗戦後の46年に行われた第42回は「故陸軍々属 望月勇殿 以下 二千百八十八柱」だった。

 広島城の本田美和子学芸員は「陸軍が海上輸送のため民間船を数多く徴用した末に、多くの犠牲を出したことも示す貴重な資料だ」と指摘する。

 合同葬の後、遺骨は県内外の遺族に引き渡された。だが米軍による都市空襲が増えてくると、遺族が現れないことも多くなったという。引き取り手のない遺骨は千暁寺が供養を続け、80年3月、東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑に納骨するため県に引き渡した。

 「軍人、軍属に加え家族も犠牲になったのが戦争の現実です」。現住職の正実さん(73)は、死者に思いを巡らせる。45年8月6日、爆心地から約4・3キロの千暁寺は原爆による焼失を免れたが、被災者の救護所となり、戦死者に加え原爆死没者の供養の場にもなった。

「一度も会えず 戦争は悲惨」 船舶砲兵の父が戦死 西区の吉田さん

 千暁寺の「合同葬」で弔われた暁部隊の兵士たちは、多くが異郷の地で命を落とした。戦没者の最期はどのようなものだったのか。遺族の思いとともに聞いた。

 西区の吉田只五郎さん(78)は、船舶砲兵だった父・堯さん=当時(26)=を亡くした。1944年8月、陸軍徴用船「利根川丸」に乗っていたといい、小笠原諸島の聟(むこ)島付近で米軍の攻撃を受け撃沈した。その時吉田さんは、母のおなかの中にいた。「父の姿を一度も見たことがないんです」。遺骨も戻っていない。

 家族で三次市に移り、戦後を必死に生きた。「クラスの5、6人ほどは父がいなかった」と記憶する。学校の教諭たちは気にかけてくれたが、寂しさは消えない。身重の母のおなかをさすり「次は男の子だ」と言っていたこと。陽気な人柄だったこと。家族らに聞いた話や生前の写真などで面影をたどってきた。

 父の死から69年後の2013年、吉田さんは小笠原諸島へ赴いた。利根川丸が沈んだ付近とみられる洋上から、花や線香を手向けた。この年末にも再訪する。「父は無念だったろう。戦争は悲惨。孫たちには私のような悲しく寂しい体験は決してさせたくない」

(2023年8月28日朝刊掲載)

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