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連載・特集

[モノ語り文化遺産] 戦没音楽家の楽譜 失われた命つなぐ旋律 学徒出陣前 広島で作った曲も

 終戦から78年、戦争で命を絶たれた音楽家たちの遺(のこ)した楽譜が、現代の演奏によって息を吹き返しつつある。精魂を込めた五線譜は何を伝え、現代の私たちにどう響くのか。岡田二郎、草川宏という名の2人の戦没音楽家が刻んだ楽譜を追った=敬称略。(西村文)

 岡田は1905年、広島県上下町(現府中市)生まれ。田山花袋の門下生だった小説家岡田美知代(1885~1968年)は叔母に当たる。後にバイオリン奏者として活躍し、マーラーの交響曲第2番などの日本初演に携わった。

 岡田は作曲にも心血を注ぎ、歌曲「春」は教科書に載った。日中戦争が始まった1937年、師範学校や高等女学校用に出た教科書「音楽」第3巻だ。

 「美しく優しいメロディー。若い学生たちにこの曲を供した人柄がしのばれる」と音楽史研究家の橋本久美子(68)=東京。東京音楽学校(現東京芸術大)に在籍した戦没学生・教員の調査、研究を2015年から進める。本来は演奏家である岡田が作曲を手がけていたことで「生前の功績を知ることができた」と話す。

 岡田は25年、東京音楽学校に入学。卒業後は教官(後に助教授)を務め、管絃楽部でバイオリンを弾いた。ブラームスの楽曲を好んだという。教官時代、乗杉嘉寿校長からの依頼で「春」を作った。

 45年3月に同大を辞職。妻、子ども2人と帰郷し、広島県立第二高等女学校の音楽教師になった。「敵国の音楽」に厳しい目が向けられた時代。「雨戸を閉め、暑い室内でふんどし一丁になってバイオリンを練習していた」。当時9歳だった長男晋輔(87)=広島市東区=は父の姿を記憶する。

 8月6日、爆心地から2・3キロの広島市南観音町(現西区)で被爆。家族は全員助かったものの、岡田は恩師らを捜して広島市内を歩き回った末、25日に放射線障害とみられる症状で亡くなった。

 2020年12月、東京芸大であったコンサートで、若手声楽家が岡田の歌曲を披露した。「戦没者の作品を聞くと、誰もがその人生に思いをはせる。戦争の記憶をつないでいけたら」と橋本は話す。

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 草川は、長野市出身の作曲家で「夕焼小焼」などで知られる草川信の長男だった。東京音楽学校研究科在学中の44年に入隊し、翌年6月2日にフィリピン・ルソン島で戦死した。23歳。遺骨は戻らなかった。

 遺稿となった鉛筆書きの楽譜を、東京芸大の大学史史料室が所蔵している。「川風景」と題した小品。冒頭に「広島藤田旅館前の川にて」と記してある。

 宏は44年10月13日、東京・品川駅をたち、広島に向かった。30日に宇品港(現南区)から戦地に向かうまで、現広島市中区大手町付近に滞在。窓から眺めた川面や橋のたたずまい、ボート遊びの光景、山並みなどから着想、作曲した。五線紙に刻んだ音符は、創作の喜びに弾むようだ。

 楽譜は、塚本町(現中区)に住んでいた東京音楽学校卒の森田親之が預かり、草川家に送った。森田は翌年、被爆死。戦後、楽譜は宏の弟、誠(2020年に95歳で死去)が保管してきた。

 「父は兄を心から敬愛していた。とても明るく人間味にあふれた人柄だったようだ」と誠の長男、郁(64)=東京都。東京芸大に寄託した楽譜に「若い才能の芽を摘んでしまう戦争の愚かさを伝えてほしい」との願いを託す。

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東京芸大が収集 音源も公開

 橋本は1982年に東京芸術大大学院を修了後、同大百年史の編集に従事。その際、学徒出陣の経験者に出会ったことが、戦没学生の調査・研究につながった。これまでに東京音楽学校の学生・卒業生32人が戦死、卒業生10人が空襲や原爆で死亡したことが判明している。

 同じ東京芸大の前身である東京美術学校の戦没者については、長野県上田市にある「無言館」が遺作絵画を収集、展示している。一方、音楽学校生については遺族の協力で譜面は徐々に集まったが、「音楽は演奏しなければ届かない」(橋本)という壁に突き当たった。

 それを解決したのが、デジタル技術だった。2017年から戦没者の作品を演奏するコンサートを開催、インターネットのサイト「芸大ミュージックアーカイブ」や「戦時音楽学生Webアーカイブズ声聴館」で音源や動画を公開している。岡田二郎作曲「春」の演奏も芸大ミュージックアーカイブ内http://arcmusic.geidai.ac.jp/10284 に収めている。

(2023年8月31日朝刊掲載)

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