カナダ移民の遺品「帰郷」 広島出身 故石原七太さんのアルバム・勲章 大戦中の苦難 親族ら思いはせる
23年9月4日
1900年代初頭に旧戸坂村(広島市東区)から北米へ渡った日系カナダ人の遺品がこの夏、広島市内の親族の元へ戻ってきた。カナダでは太平洋戦争中、日系人が「敵性外国人」とみなされ、強制収容所などで過酷な生活を強いられた。終戦から78年。ゆかりの品を受け取った親族は、先の大戦に翻弄(ほんろう)された身内の苦難に思いをはせている。(編集委員・田中美千子)
遺品はアルバム1冊と勲章、賞状など。カナダ・モントリオール市の介護施設に暮らす遺族が保管していたが、高齢を理由に手放すことに。事情を知った施設職員が広島在住の知人に親族捜しを依頼し、このほど、東区の石原忠男さん(80)の元に届けられた。
持ち主だったのは、忠男さんの大叔父に当たる石原七太(しちた)さん。公文書などによると、1902年ごろにブドウ園で働くために渡米後、カナダへ移住したとみられる。アルバムには、カナダ移住後のポートレートや七太さんの葬儀写真が張ってある。勲章や賞状は、渡米前に起きた北清事変に従軍し、日本政府や広島県から贈られたらしい。
忠男さんは「よく残っていたものだ」と驚く。七太さんには会ったことがないが、子どもの頃に毎冬、モントリオールから小包が届いたことは覚えているという。原爆が落とされた古里の家族を案じてか、麻袋にたくさんの缶詰が入っていた。「ぜいたくをできない時代だけに毎年、楽しみにしていた。今思えば大叔父も楽な生活ではなかったはずなのに…」
日系2世の研究者ミチコ・ミッヂ・アユカワ著「カナダへ渡った広島移民」(明石書店)が、七太さんの遺族の聞き取りを基に一家の苦境に触れている。七太さんはカナダ移住後に会社を営んでいたが、共同経営者が資金を使い込んでしまい、製材所で働くことに。その作業中、事故で指を失った。一時は大家族で狭い長屋に住み、同じ戸坂村出身の妻も内職で家計を支えたらしい。
苦境は戦中も続いたようだ。41年当時、カナダには約2万3千人の日系人がおり、その6割は現地生まれの2世だったとされる。日本が米英に宣戦布告すると、英連邦に属するカナダは全日系人を敵国人と規定。西海岸の東100マイル(約160キロ)内からの立ち退きを命じ、内陸部の収容所や道路建設現場へ移動させた。財産は強制処分し、終戦後も49年4月まで西海岸に戻らせなかった。
「さぞ苦労したろう」と忠男さん。弟2人や子どもを自宅に呼び、全員で遺品を確かめた。知人に頼まれ、七太さんの名前や出身地を手がかりにして人づてに忠男さんを捜し当てた田中勝邦さん(79)=西区=も同席し、経緯を説明した。
田中さんは、自らも戦中に苦労したカナダ移民の大叔母を持つ。「日本が始めた戦争で日系人も被害に遭った。過ちを繰り返さないためにも、多くの人に移民の歴史を知ってほしい」と語った。
(2023年9月4日朝刊掲載)
遺品はアルバム1冊と勲章、賞状など。カナダ・モントリオール市の介護施設に暮らす遺族が保管していたが、高齢を理由に手放すことに。事情を知った施設職員が広島在住の知人に親族捜しを依頼し、このほど、東区の石原忠男さん(80)の元に届けられた。
持ち主だったのは、忠男さんの大叔父に当たる石原七太(しちた)さん。公文書などによると、1902年ごろにブドウ園で働くために渡米後、カナダへ移住したとみられる。アルバムには、カナダ移住後のポートレートや七太さんの葬儀写真が張ってある。勲章や賞状は、渡米前に起きた北清事変に従軍し、日本政府や広島県から贈られたらしい。
忠男さんは「よく残っていたものだ」と驚く。七太さんには会ったことがないが、子どもの頃に毎冬、モントリオールから小包が届いたことは覚えているという。原爆が落とされた古里の家族を案じてか、麻袋にたくさんの缶詰が入っていた。「ぜいたくをできない時代だけに毎年、楽しみにしていた。今思えば大叔父も楽な生活ではなかったはずなのに…」
日系2世の研究者ミチコ・ミッヂ・アユカワ著「カナダへ渡った広島移民」(明石書店)が、七太さんの遺族の聞き取りを基に一家の苦境に触れている。七太さんはカナダ移住後に会社を営んでいたが、共同経営者が資金を使い込んでしまい、製材所で働くことに。その作業中、事故で指を失った。一時は大家族で狭い長屋に住み、同じ戸坂村出身の妻も内職で家計を支えたらしい。
苦境は戦中も続いたようだ。41年当時、カナダには約2万3千人の日系人がおり、その6割は現地生まれの2世だったとされる。日本が米英に宣戦布告すると、英連邦に属するカナダは全日系人を敵国人と規定。西海岸の東100マイル(約160キロ)内からの立ち退きを命じ、内陸部の収容所や道路建設現場へ移動させた。財産は強制処分し、終戦後も49年4月まで西海岸に戻らせなかった。
「さぞ苦労したろう」と忠男さん。弟2人や子どもを自宅に呼び、全員で遺品を確かめた。知人に頼まれ、七太さんの名前や出身地を手がかりにして人づてに忠男さんを捜し当てた田中勝邦さん(79)=西区=も同席し、経緯を説明した。
田中さんは、自らも戦中に苦労したカナダ移民の大叔母を持つ。「日本が始めた戦争で日系人も被害に遭った。過ちを繰り返さないためにも、多くの人に移民の歴史を知ってほしい」と語った。
(2023年9月4日朝刊掲載)