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社説・コラム

木次乳業創業者 佐藤忠吉さんを悼む 「次の村」追い続けた生涯 日本の有機農業の草分け

 木次乳業(雲南市木次町東日登)の創業者で日本の有機農業の草分け、佐藤忠吉さん大往生の報に接した。高齢者の孤立は深刻な問題だが、佐藤さんの場合、老いるにつれて若いファンが増えていった。「忠ちゃん幼稚園」である。すると断片的な出雲弁のとつとつとした語りさえ一つの宇宙に見えてくる。「忠吉曼荼羅(まんだら)」と表現した人がいたが、言い得て妙だ。

 農村を翻弄(ほんろう)する資本の論理や官の理屈に異議を唱え、霞が関でも「百姓 佐藤忠吉」の名刺を出した伝説の人。わけても「地域は鎮静化すべきです」が持論で、ある地域だけ活性化すれば限られた資源がそこに集中し、一方では貧困が生じると警鐘を鳴らした。減らしもしないが増やしもしない、次の世代につけを回さない。そうした理念をなりわいという形にしようとした生涯だった。

 1920(大正9)年生まれで関東大震災の頃は3歳。戦時中は初年兵として中国戦線に送られたが、次々に罹患(りかん)した病気のおかげで命拾いしたという。戦後は農薬や化学肥料を投じた牧草で乳牛の繁殖障害が起きた失敗から木次有機農業研究会を発足させた。強くなかったこと、失敗もしたことが人生の糧になる。そして同志に恵まれた。

 木次には聖書の言葉「一粒の麦」を引用して彫られた石碑が立つ。佐藤さんの酪農の同志でクリスチャンだった大坂貞利さんの急逝(93年)を悼むいしぶみ。この地では戦後、加藤歓一郎という教育者によって無教会派のキリスト教が根付き「考え方は宮沢賢治に、行動は田中正造に学べ」という教えに大坂さんら若者は薫陶を受ける。  「わしは門徒宗(浄土真宗)ですけん」と言う佐藤さんも同じエートス(精神風土)に育まれた人である。

「農」は技術論ではなく生き方そのものだった。かつて民俗学者宮本常一は土地土地の「古風なるもの」つまり共同体的な結束を探して旅したが、まさにそれだったのかもしれない。

 佐藤さんは社長時代、社報「きすき次の村」でペンも振るう。今の事業がマスコミに取り上げられても理想には程遠い、もう一人の自分、もう一つの木次乳業へ―と決意を述べた。「次の村」の意味が分かってくる。

 筆者が佐藤さんと出会って37年の歳月が流れていた。近くの出雲湯村温泉で川から湧き出る露天風呂に一緒に漬かったことも。焼きアユを骨ごと食すのに目を見張る。取材だと言うと「そげなこと、どげでもええわね」とかわされるはずなので最近は「大人の修学旅行です」と口実を設けて訪ね、自慢のワインの試飲は友人に任せた。そんな記憶をたどるほどに「忠吉曼荼羅」が頭の中で今ぐるぐる回っている。(客員特別編集委員・佐田尾信作、写真も)

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 佐藤忠吉さんは2日死去、103歳。

(2023年9月9日朝刊掲載)

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