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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <1> 茶色い戦争 張り詰めた時代の空気 詩に

 「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました/幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました」―。そんな出だしの中原中也(ちゅうや)の詩「サーカス」から、昭和初期という時代の張り詰めた空気が伝わってくる。  満州事変後の「十五年戦争」期にあった昭和9(1934)年の朗読会で、中也はハスキーな低音でこの詩を披露した。

 「幾時代かがありまして 今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り」と続く詩は、サーカス小屋の空中ブランコにズームイン。「頭倒(さか)さに手を垂れて 汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」

 軍部が台頭するさなかでの喧噪(けんそう)と退廃。「観客様はみな鰯(いわし) 咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」。傍観して流されるがままの人々はやがて現実に引き戻される。「屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇 夜は劫々と更けまする」

 山口の開業医の長男だった中也は山口中学を落第して京都へ。16歳でダダイズムに傾倒し、広島出身の俳優長谷川泰子と同棲(どうせい)。上京して詩を書く。

 祖父はキリスト教伝来地へのサビエル記念公園(現山口市金古曽町)造営に尽力し、神父が家によく来た。育った環境もあってかフランス象徴詩に親しんだ中也は、閉ざされたサーカス屋内を表象に時代を切り取る。

 中也が神童と呼ばれた小学高学年の頃、現長門市の菱海村から2歳上の少年が山口に来た。成績抜群で軍人志望の磯部浅一。篤志家の世話で勉学を続け広島陸軍地方幼年学校に進む。

 大正中期の2年間、同じ山口盆地の空気を吸った2人はともに昭和12(37)年に早世した。

 中也は第2詩集の原稿を小林秀雄に託して病死した。「真ッ闇」な戦争の時代を経て、その詩に評価の光が当たる。

 磯部は二・二六事件を起こして処刑された。「天皇陛下 何と云(い)う御失政でありますか」とつづった「獄中日記」を残した。(山城滋特別編集委員)

 中原中也 1907~37年。「サーカス」初出は昭和4年。同9年に第1詩集「山羊の歌」、死後の同13年に第2詩集「在りし日の歌」。元軍医の父謙助との間に葛藤を抱え、母フクからは死ぬまで送金してもらった。

(2023年9月12日朝刊掲載)

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