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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山瀬潤子さん―友に触発され証言者に

山瀬潤子(やませじゅんこ)さん(86)=広島市中区

80歳過ぎ帰郷。湧き上がる平和への思い

 8歳で被爆した山瀬(旧姓才木)潤子さんは原爆資料館(広島市中区)などで被爆体験を語る市の証言者として活動しています。始めたのは約3年前。長く暮らした下関市から古里の広島市に帰郷(ききょう)したのがきっかけでした。先に証言を始めていた友人が核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)を訴(うった)え続ける姿に触発(しょくはつ)され、人前で語ることを決意しました。

 山瀬さんは当時、荒神町国民学校(現南区)3年生。自宅は広島駅前にありましたが1945年春、爆心地から2・2キロの比治山東側の旧段原中町(同)に引っ越しました。空襲(くうしゅう)による延焼を防ぐために家屋を取り壊(こわ)す「建物疎開(たてものそかい)」の対象になったためです。父方の祖母と両親、きょうだい5人の計8人暮らしでした。

 あの日の朝、郊外(こうがい)にいた祖母と次兄を除(のぞ)き、自宅で母親と広島一中(現国泰寺高)2年の長兄、4歳の妹、2歳の弟と過ごしていました。窓ガラスに光が反射(はんしゃ)したのを感じた直後、すさまじい音が響(ひび)き、床に伏せました。比治山が陰(かげ)になって家は全壊(ぜんかい)を免(まぬが)れました。

 自宅前の道路に出ると「助けて」という叫(さけ)び声が聞こえました。子どもを抱いた隣家の女性の腕(うで)から血が噴(ふ)き出ていたのです。母親が身に着けていた手ぬぐいで止血してあげました。真っ青だった空は黒い雲に覆(おお)われて暗くなっていて人々の混乱(こんらん)した様子におののきました。

 しばらくすると、トラックが目の前を通り過ぎました。血とほこりにまみれ、衣服が焼けて裸同然(はだかどうぜん)の人たちが荷台に横たわり身動き一つしません。比治山に目を向けると、西側から逃(に)げてくる人波ができていました。「両足が焼けた人が、尻を地面に引きずりながら両手で前進する姿(すがた)が目に焼き付いています」

 出勤途中(しゅっきんとちゅう)に的場町(現南区)の電停(でんてい)で被爆した父は左腕に大やけどを負い、6日夕に自宅へ帰ってきました。薬はなく、患部(かんぶ)に湧いたうじを箸(はし)で取り除(のぞ)くことしかできませんでした。

 8人家族がそろって終戦を迎えましたが、父親の腕にはケロイドが残り皮膚(ひふ)が引きつって曲がったまま。被爆の影響(えいきょう)か体調をよく崩(くず)していました。一家の大黒柱が働けず苦労が絶えませんでした。

 山瀬さんは高校卒業後に就職しました。40代半ばに仕事で下関市へ移住。80歳を過ぎてきょうだいや友人たちと余生を過ごそうとUターンしました。

 その友人の一人が被爆者の篠田恵さん(91)=中区=です。編み物教室で知り合い、被爆体験証言者として長く活動する姿を見てきました。篠田さんの平和への思いに触(ふ)れて「原爆の実情を語り継(つ)ごう」という思いが湧(わ)き上がりました。広島市の募集に応じ、2年間の研修を経て2020年から、県内外で若者たちに体験を語っています。

 今夏、長兄・才木幹夫さん(91)も証言者を志(こころざ)し、市の研修を受け始めました。ウクライナを侵攻(しんこう)したロシアのプーチン大統領が核使用をほのめかすのを見て「核兵器の恐ろしさを伝えたい」と強く思ったからです。当時13歳だった幹夫さんは被爆前後をよく覚えており、兄妹で原爆について語り合ってきました。ともに被爆を乗り越(こ)えた兄の決意に「いくつになっても核廃絶のために原爆のむごさを発信しよう」との思いが強くなっています。(新山京子)

私たち10代の感想

恐怖感じる「原爆の絵」

 基町高の生徒たちが山瀬さんの被爆体験を基に描(えが)いた4枚の「原爆の絵」を見せてもらいました。山瀬さんは当時を知らない生徒に実情を伝える難しさを感じたそうです。それでもその絵を見ながら証言を聞くと想像が広がり、原爆の恐ろしさを感じました。核兵器がもたらす悲劇(ひげき)を世界の指導者たちにも知ってほしいと思いました。(中2矢沢輝一)

当時の状況を聞き鳥肌

 山瀬さんが父親の左腕(ひだりうで)のやけどにたかったうじを取り除(のぞ)いたという話を聞き、驚(おどろ)きで鳥肌(とりはだ)が立ちました。まともな治療(ちりょう)ができず、不衛生な状態で苦しむしかなかった当時の状況を初めて知りました。高齢化が進み被爆者の証言を聞く機会が減っている中、山瀬さんは「積極的に耳を傾(かたむ)けて」と呼びかけました。取材活動を通じて、多くの体験者の声を聞きたいと思います。(中2松藤凜)

 山瀬潤子さんの証言の中で、戦争によって多くの学生の人生が左右されたと実感しました。戦争中の学徒動員だけでなく、戦争後も苦労した子どもがたくさんいたことを知りました。学校で学べることがどれほど尊いかが分かりました。私が山瀬さんの取材を通して感じたことは、自分なりに原爆の情報を発信していくことの大切さです。自分の耳で聞いた証言を文章などで残していくことの必要性を感じました。山瀬さんの証言の中で、山瀬さんの証言を基にした基町高の生徒の原爆の絵を見ました。山瀬さんは「戦争や平和について学び考え、それぞれの立場で自分のできることから始めていきましょう」と話しました。自分らしく原爆の実情を次世代に伝えて、平和の尊さを訴えていきたいと思います。(高1中野愛実)

 「いつか、と証言を聞くことを後回しにしていてはだめだ」という言葉が印象に残りました。私の亡くなった曽祖母が被爆者で、生前に被爆体験を聞くことができませんでした。「被爆者の声を聞ける最後の世代」という言葉の重み、そして被爆体験を残すことの大切さを改めて感じることができ、これからもっと被爆者の方に取材していかなければならないと思いました。(高1谷村咲蕾)

 山瀬潤子さんは、原爆のことを「ピカドン」というように、原爆投下時のことをピカッと光り、ドンという衝撃があったと話します。思わず、「とうとう自宅に爆弾が落ちた」と錯覚してしまう程でした。被爆体験は被爆者しか語ることができないと話します。「いつか、いつかではだめ」。山瀬さんのこの言葉で、今すぐ行動を起こす大切さを痛感しました。(高1森美涼)

 山瀬潤子さんは「核兵器廃絶と世界恒久平和」を強く願っていると話しました。その言葉から、一発の原子爆弾により、家族をはじめ、さまざまなものが奪われたという思いが受け取れました。また、下関市に住んでいた頃はメディアなどで原爆や平和について取り上げられることが少なかったそうです。広島以外に住んでいる人にも平和の思いを共感してもらえるように私も取り組んでいきたいと思います。(中3山代夏葵)

 今回の取材で印象的だったのは、山瀬潤子さんが「それぞれの立場で自分に出来ることから、平和の実現に向け行動ほしい」と話されたことです。今は被爆者の方にお話を聞く機会も減り、私たち若者一人一人がヒロシマを伝えていかなければならないとその言葉を聞いて改めて感じました。私はこれからもジュニアライターとして記事を書いていくことで、ヒロシマを伝えていきたいと思いました。(中2西谷真衣)

 私が最も印象に残った話は、山瀬さんの父親の被爆後の様子です。父親は被爆後に左側の腕にケロイドが残りました。「かくとすぐに真っ赤になり、痛そうだった」と聞いて、その姿を見た家族は心が苦しかったと思います。もし私の家族が山瀬さんの父親のような深い傷を負ってそのような姿を見たら、と考えると壮絶すぎて目も向けられないと思いました。戦争の被害は被爆した本人だけでなく、その家族も心が苦しくなるということを知り、原爆のむごさを感じました。(中1山下綾子)

 ◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2023年9月12日朝刊掲載)

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