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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 田原直樹 反戦川柳人・鶴彬

激しい十七音 今も日本射抜く

  ≪手と足をもいだ丸太にしてかへし≫
 鶴彬(つるあきら)が日中戦争開戦後に詠んだ痛烈な句を以前、コラムに引用したことがある。作者を深くは知らずにいたが、今年春に出た佐高信著「反戦川柳人 鶴彬の獄死」で29年の生涯に触れて、その川柳に改めて心打たれた。

 別の打撃も受けた。佐高さんは本の「はじめに」で鶴と対比し、作曲家古関裕而(ゆうじ)を批判する。片や軍歌を作り戦意高揚に協力し、片や作品が反戦的として摘発されて獄死。同じ年に生まれながら対照的な2人。私は3年前、古関が被爆翌年に広島の曲を作ったことを軸にコラムを幾つか書いている。古関を持ち上げた面は否めない。同時代に虐殺された鶴らの視点をうかつにも見落としていた。

 命日のきょう、鶴の生涯と作品をたどり、かみしめる。

 鶴彬(本名・喜多一二(かつじ))は1909年、石川県かほく市高松生まれ。8歳で父と死別、母は再婚して上京。伯父の養子となる。地域の人に習って句作を始め、15歳で北国新聞の柳壇に作品が載る。

  ≪燐寸(マッチ)の棒の燃焼にも似た生命(いのち)≫
 川柳追求を決意したか、翌年、広島で発行の柳誌「影像」に評論「革新の言葉」を寄せ、変革をうたう。何と早熟な作家だろうか。

 養父の家業が傾くと17歳で大阪へ出て工場で働いた。労働者や社会の現実を知り、怒りや悲しみを詠むプロレタリア川柳へ向かう。

  ≪高く積む資本に迫る蟻(あり)となれ≫
 特高に目を付けられながらも上京し、萩市出身の川柳人井上剣花坊・信子夫妻にかくまわれ、創作や評論を続ける。

 川柳を武器として社会矛盾を告発したほか川柳を見下す文芸界に抗し、時流におもねる作家を舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判した。

 30年召集されて程なく「金沢第七連隊赤化事件」を起こす。機関紙持ち込みが治安維持法違反とされ大阪衛戍(えいじゅ)監獄に2年ほど服役。それでも信念は曲げない。

  ≪タマ除(よ)けを産めよ殖(ふ)やせよ勲章をやらう  胎内の動き知るころ骨(こつ)がつき≫
 身ごもる女性の元、戦地から夫の遺骨が着くという衝撃。真っすぐ詠み、戦争のむごさを訴えた。

 37年、時流に迎合した川柳家に告発され、逮捕される。留置中、拷問によって衰弱。赤痢にも感染して翌年、拘束状態のまま病院で死んだ。赤痢菌を注射されたともいわれる。

 川柳界の小林多喜二―。そう称される鶴を佐高さんは「言葉の狙撃手」と語る。社会矛盾を射抜く十七音を官憲は恐れた。文学界で軽んじられた川柳だが、鶴の句は鋭かったため抹殺したのだろう。

 反戦川柳人がどう生き、戦い、殺されたか―。佐高さんが著書に刻んだものは他にもある。戦後、鶴を発掘し、伝えた人々の姿だ。

 特筆すべきは、一叩人(いっこうじん)(本名・命尾(めいお)小太郎)という人物だ。兵士として戦地に赴いた経験から鶴に共鳴したようだ。後半生を懸けて作品や評論を集め、ガリ版刷りで鶴彬全集を出す。作家の沢地久枝さんが、その仕事を継いで増補復刻版を出した。

 短い生涯に、千句を超す川柳を詠み、多数の詩や評論も残している。

 幾人もの情熱と尽力があって、鶴とその川柳が伝えられた。このような語り継がれ方が、鶴らしいと思える。とはいえ広く知られる存在となり得ないのは、あの戦争を私たちが十分に省みていないことの証しではないか。故郷においても長く鶴を「獄中死したアカ」と捉える人がいたという。

 戦後、地元や大阪に句碑が建てられてきた。生誕100年の2009年には映画「鶴彬 こころの軌跡」(神山征二郎監督)が製作された。住民も出演の地元ロケで。誇らしい出身者という受け止めが広がってきた。

 地元に「鶴彬を顕彰する会」を訪ねた。会員たちはそれぞれ反骨と抵抗の川柳や詩を作っている。鶴の精神が根を張り息づく。公園に句碑がどっしりと立つ。

  ≪枯れ芝よ団結をして春を待つ≫
 貧困や格差、国際間の緊張など現代社会も鶴の時代と違わない。道を誤らぬために、鶴の十七音を心に留めておく。

(2023年9月14日朝刊掲載)

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