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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <5> 政略出兵 前政権との違い強調 裏目に

 田中義一内閣では首相が外務大臣を兼ね、外務政務次官に対外強硬派の森恪(つとむ)が就く。中国駐在商社員などを経た政友会衆院議員で若手の策略家。昭和2(1927)年4月に就任すると省内官僚を集め、対中国外交の軟弱ぶりをやり玉に挙げた。

 翌月、北伐中の蔣介石率いる国民革命軍が華北地域に迫った。邦人を避難させるだけだった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)前外相の不干渉主義を批判してきた政友会政権だけに、憲政会との違いを有権者にアピールする好機だった。

 田中内閣は居留民保護のために山東出兵を決断した。兵約2千を同年5月末、青島に派遣する。森は対中国政策を統一するため外交官や軍当局者を集めた「東方会議」を開いた。

 その後の北伐中断で派遣兵は9月に撤収した。邦人保護の必要が生じたら再出兵するとの声明を内閣は出す。政友会政権による強硬策の公約だった。

 昭和3(28)年春に蔣は北伐を再開。満州(現中国東北部)の奉天を拠点とする北方軍閥の張作霖(ちょうさくりん)が掌握する北京政府の打倒を目指す。山東省要衝の済南付近に国民革命軍が迫った。憲政会政権なら済南の在留邦人を避難させて済ませただろう。

 田中首相はしかし、前年の公約を念頭に「出したくないけど出す」と第2次山東出兵を決断した。「政略出兵」に不賛成だった陸軍参謀本部を押し切る。

 いざ出兵が決まると陸軍は、紛争抑止のために大規模派兵を主張した。熊本の第六師団が主力の約3500人が済南に着くが、内戦中の都市駐留にはリスクが伴う。同年5月初めに国民革命軍と全面衝突し、戦闘激化の末に済南城を陥落させた。

 済南事件による中国側の死傷者は数千人に上り、蔣は日本を敵視し始める。中国国内で日本製品の不買運動が広がった。

 田中首相は「済南事件の責任は第六師団長にある」と貴族院本会議で答えてしまい、出身母体の陸軍の猛反発を買う。普通選挙の下、他党との違いを過度に強調する政略出兵が招いた政権の迷走だった。(山城滋)

東方会議
 昭和2年6、7月に開催。対中国政策として①中国本土について中立的態度で臨む②日本の権益や在留邦人が危機にさらされた場合は自衛措置を取る③満蒙(まんもう)における日本の特殊地位を尊重する政権を支持―などを決めた。

(2023年9月19日朝刊掲載)

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