×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <4> 自由対保守 二大政党 対中国政策で激突

 二大政党の対立軸の一つは、憲政会の自由主義対政友会の保守主義だった。外交面では国際協調と対外強硬に分かれ、両党は対中国政策で激突した。

 憲政会総裁の加藤高明(たかあき)首相率いる連立内閣の蜜月は1年弱。憲政会主導を嫌う政友会は大正14(1925)年4月、高橋是清に代わる新総裁を選ぶ。

 原敬(たかし)内閣で陸軍大臣をした田中義一だった。党内が人材不足でも、長州閥の陸軍大将を担ぐのは異例。労働組合に理解を示すなど自由主義色を強める憲政会に対抗する狙いがあった。

 普通選挙での集票の魂胆も透けて見える。選挙に勝つ見込みを聞かれた田中は「おお!それはある。俺は在郷軍人三百万を持っているでのう!」と答えた。長州閥の久原財閥という政治資金源も確保していた。

 帝国在郷軍人会を育て、陸軍の大陸進出を主導した新総裁の下で政友会は保守色を強める。主戦場は対中国外交だった。外交官出身で憲政会の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣の国際協調路線を「軟弱外交」と非難した。

 憲政会単独の第2次内閣をつくった加藤は翌大正15(26)年1月に病死し、副総理格の若槻(わかつき)礼次郎(松江出身)に組閣の大命が下る。若槻内閣は、中国での蔣介石率いる国民革命軍の北伐開始に直面した。

 北伐軍は日本など列強とも衝突を起こすが、幣原は不干渉主義を貫く。昭和2(27)年3月に北伐軍が南京で日本領事館を襲撃し、邦人は無抵抗で暴行を受けた。4月の漢口事件では、英国からの共同出兵の要請を幣原は断る。政府は長江流域の在留邦人を引き揚げさせた。

 政友会の強硬派は「国辱的な暴力に直面する国民を見捨てた」と政府を責め立て、新聞など国内世論も激高した。折からの金融恐慌の不手際処理も重なり若槻内閣は総辞職する。

 元老らは後継首相に田中義一を推挙し、同年4月に政友会内閣が誕生。対中国外交は劇的変化に見舞われる。(山城滋)

北伐
 全国統一に向け国民革命軍が1926年に開始した北方軍閥を打倒する作戦。幣原は不干渉主義により共産党の抑え役である蔣介石の地位保全を狙い、蔣は協力関係にあった共産勢力を27年4月に排除した。

(2023年9月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ