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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <6> 張作霖爆殺 軍の謀略 政治関与の道開く

 昭和3(1928)年6月4日の中国新聞夕刊は、張作霖(ちょうさくりん)が乗る列車が満州の奉天駅間近で早朝に爆破されたと報じた。通信社電通の至急報は「南方便衣隊(国民革命軍のゲリラ)のため」との憲兵隊による調査結果も伝えた。

 張は奉天を拠点に満州を統治する軍閥。日本の支援で勢力を広げたが、北京政府を掌握すると米国などとのパイプができて対日関係にさざ波が立つ。

 北伐の国民革命軍が迫ってくると張は奉天への退却を決め、特別列車で北京をたつ。爆破は関東軍参謀の河本大作大佐の謀略で、間もなく張は死亡した。

 日本は当時、関東州(遼東半島南部)の租借権、南満州鉄道(満鉄)や鉄道付属地の行政権などを保持していた。これら満蒙(まんもう)(満州と東部内蒙古)権益について政友会総裁の田中義一首相は、張の勢力を満州に残して維持する方針だった。

 これに対し権益地域を警護する関東軍の首脳たちは、満鉄と競合する鉄道の育成など張の「横暴」に業を煮やしていた。張を排除して親日政権を樹立するしかないとの結論に至る。

 陸軍中央でもかつてない政治的な動きが台頭する。陸軍省と参謀本部の少壮幕僚グループが、国家生存に備えて満蒙を実質支配する方針を確認した。

 関東軍首脳は張の軍勢の武装解除に向け、満鉄付属地外への出兵許可を政府に迫る。内閣は張勢力の温存政策は変えずに付属地外へ治安出動する方針を固めた。この中途半端な方針は田中首相の変心で撤回となる。

 米国の圧力に屈したとの臆測が広まって陸軍内で不満が噴出する中、河本は爆破事件を起こした。中国側の仕業として軍事行動を起こす狙いだったが、田中首相に阻止された。

 明治天皇による軍人勅諭の下賜は民権運動全盛期の明治15(1882)年。「世論に惑わず政治に拘(かか)わらず」との戒めは空文化し、事件は謀略による政治関与の道を開いた。(山城滋)

少壮幕僚グループ
 昭和2年に二葉会と木曜会ができ、同4年に一夕会へ合流。永田鉄山、東条英機、河本ら非長州系で構成。総力戦に備えた満蒙問題の武力解決、非長州系による陸軍の主要ポスト掌握を目指した。

(2023年9月20日朝刊掲載)

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