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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <1> 「唯一」の違反

 米国をはじめとする連合国軍総司令部(GHQ)は日本を占領した直後、プレスコードを発して報道を規制した。占領政策を浸透させ、思想動向を探るために巧妙に、厳格に行われた検閲には、いまだ未解明な部分がある。原爆を巡り、米国は当時、何に神経をとがらせていたのか。被爆地広島の新聞社の「原爆記事」に対する検閲から実態に迫る。

「マッカーサー」で形式判断

 東京・永田町の国立国会図書館憲政資料室。検閲された跡が残る本紙紙面のマイクロフィルムを一つずつ確認していく。GHQが検閲のために集めた出版物を収蔵する米メリーランド大プランゲ文庫の資料だ。全国紙なども含めた新聞紙面は推定170万ページ、記事は同2600万本にも上る。

事後検閲で不可

 広島大平和センターのファン・デル・ドゥース瑠璃准教授(社会科学、記憶学)の協力を得て調べた。GHQの検閲体制が整った1946年3月から、検閲が終わった49年10月末までの間で確認できた本紙の原爆関連記事は1505本。実際に679本(45・1%)が検閲を受けていたことが判明した。

 その中で「プレスコード違反」としたGHQ文書が残る記事は1本だけだ。46年7月22日付2面に掲載された、わずか12行の記事だった。

 見出し「宗教博愛団体通じて全世界の援助を要望 広島市、マッカーサー元帥に許可願ひ」

 本文「広島市の復興財源として広く海外の同情義援(ぎえん)金を募集しようと木原市長は、マ元帥にあてゝ平和的文化都市建設のために世界の宗教博愛団体を通じて各国民に呼びかけ精神的物質的援助を要望したい旨二十日午後許可申請書を書き斡旋(あっせん)方を復興顧問ハービン・サテン少佐に依頼したが、同少佐は二十二日上京しマ司令部に許可申請書を持参する」(漢字は新字体に改めた)

 社に違反を通達した文書3枚は、検閲を担当したGHQ傘下の民間検閲局(CCD)第三支局(福岡市)から送られた。うち1枚には記事の英訳と処分内容が記されていた。「DISAPPROVED(不可)、Petition to Macarthur(マッカーサー元帥に許可願ひ)」

 全国紙などを対象にした事前検閲であれば「不可」は削除させられた。本紙をはじめ、地方紙は発行済み紙面をチェックする事後検閲だったため、「次からは注意しろ」との指示だろう。とはいえ、GHQ批判などを禁じたプレスコード10項目と照らし合わせても、この内容でなぜ違反とされたのか分からない。

キーログの指針

 引っかかったのは、プレスコードをより具体的にした検閲マニュアルだった。「キーログ」と呼ばれる。「マッカーサー元帥、マ司令部、連合軍、最高司令部に言及してはならない」との指針が盛り込まれていた。つまり、この記事の違反は極めて形式的だった。

 占領期の原爆報道にプレスコードが与えた影響を巡っては、「厳しい制約を受けた」「そうでもなかった」と異なる見方、証言がある。違反とされた本紙原爆記事は本当に1本だけか―。調査を続けると、CCD支局が違反事例を上部組織に報告した文書を見つけた。しかし、この中にも本紙の事例はなかった。

 検閲体制下、その痕跡が残らぬよう資料や新聞紙面は焼却されたり廃棄されたりした。違反と判断された原爆記事は他にもあった可能性はある。原爆報道への影響を「1本」という数字だけで評価するのは難しい。

キーログ

 メディアの検閲官向けに作成された文書。プレスコードの検閲方針を詳細に説明したほか、留意すべき事項として戦犯、労働者のストライキ、天皇への言及や論評といった30項目前後を挙げていた。必要に応じて改訂された。

この連載は客員特別編集委員・籔井和夫が担当します

(2023年9月20日朝刊掲載)

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