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社説・コラム

『想』 高木彬子(たかきあきこ) 人生100年の卒業論文

 「本物を売るのだ」。「タカキベーカリー」創業者である夫のそのひと言が「商い」の始まりでした。

 戦後間もない広島でパンを作って売ることは、一から十まで経験のないことばかり。「どのようにやればよいのか」と質問しても「やったことがないことを考えるのが仕事だ」の一点張り。ならばやるしかないと、とにかく一日中動き回りました。

 どんなに小さなことでも体験したことは心に残っていきます。次第に「本物」の意味が理解できるようになりました。でも独り善がりの思い込みはまずいと反省したり、パンを売ることが、どう食の文化につながるのかと悩んだり…。そんな折、木村尚三郎さんの著書「『耕す文化』の時代」を手にしたのです。本には次の言葉がありました。

 「収穫の楽しみがあるからこそ、人間は土を耕す」

 やればやっただけの収穫があり、お客さまの喜びにつながっている。本物を追い続けることが文化なのだと、商人として生きる喜びを知りました。

 その後も、出会った人たちの印象的な言葉や、本の中の心に残るフレーズをノートに書き留めていきました。そのノートは30冊になります。それらの言葉を何度も読み返し、自分なりにアレンジし、どう動けば良いかを考え続けてきました。

 広島県北広島町には「アンデルセン芸北100年農場」があります。頑張った分だけ収穫があり、刈り取る喜びがあります。それはやがてお客さまの喜びにつながり、同時に、働く者の生きる喜びとなるのです。

 以前、文化講演会に来ていただいた永六輔さんの言葉に「生きているということは誰かに借りをつくること 生きていくということはその借りを返してゆくこと」とあります。

 私は今月98歳になりました。今は、これまでお世話になった人たちに借りを返すときです。「食卓に幸せを運ぶ」ために働いた小さな積み重ねを、記憶のあるうちに人生の卒業論文としてまとめ、100歳までに書き終えようと決心したところです。 (アンデルセングループ相談役)

(2023年9月16日朝刊セレクト掲載)

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