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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <2> スロースタート

網擦り抜けた初期の71本

 連合国軍総司令部(GHQ)は中国新聞などの地方紙に対する検閲について、発行後の紙面をチェックする「事後」とした。事後検閲は1945年秋ごろから順次始まった。

 流れはこうだ。各地方紙はGHQ傘下の民間検閲局(CCD)の支局に新聞を毎日2部送る。検閲官の大半は日本人。検閲の必要があると考えた記事を英訳して米国人上司に提出した。上司がプレスコード違反と判断すると各新聞社に通達する。違反の度合いが大きい場合、各社の責任者を支局に呼び出して注意した。

 占領期に検閲された出版物を収蔵する米メリーランド大プランゲ文庫の資料を確認すると、体系的な本紙の事後検閲が始まったのは46年3月24日付からとみられる。

在京全国紙優先

 東京発行の全国紙は、占領直後の45年9月から厳しく事前検閲されていた。在京メディアを優先したため地方紙への対応は遅れた。GHQは45年秋、英語が堪能な日本人検閲官の採用を開始。研修も必要だった。全国に及ぶ検閲体制の整備に時間がかかった。

 本紙の原爆関連記事は、どの程度検閲されたのか。GHQが厳しい姿勢で臨んでいれば次々と検閲対象にしたはずだが、初期はそうでもなかった。

 本紙で最初に検閲対象になったとみられる原爆記事は46年6月3日付。体系的な検閲の開始から2カ月余りたっていた。「ノンキ過ぎるネエ 一松サン 広島復興を見て吃驚(きっきょう)」との見出しで、広島出身の石田一松衆院議員が帰郷して来社し「案外復興が遅いのでびっくりした」と述べた、との記事である。

 一方、この2カ月余りの間、71本もの原爆記事が検閲を受けないまま掲載されていた。主な記事を挙げる。

 太平洋ビキニ環礁での米国の原爆実験に参加するため戦艦長門が現地に向かったことを伝える「長門ビキニ環礁に向(か)う」(46年3月25日付)▽「原子力管理法案 米下院通過」(同4月5日付)▽「ピカの犠牲者に特別扶助金支給」(同5月11日付)▽「爆弾症に医学の挑戦 都築博士中間報告」(同5月22日付)▽「仁科博士 広鉄局で講演」(同5月26日付)―など。

 新たな原爆開発や原爆の国際管理、被爆者医療・支援に関する内容を含む。反米感情や原爆の悲惨さを広めることにつながりかねないが、検閲の網を擦り抜けた。

研究関連の記事

 その象徴は東京帝国大(現東京大)医学部の都築正男教授、理化学研究所を率いた仁科芳雄博士を取り上げた記事だろう。原爆投下直後から被爆者の治療、影響研究に携わった第一人者である。

 「原爆関係はGHQのトップシークレットで研究発表は許可しない」。GHQは45年11月、文部省(現文部科学省)学術研究会議原爆災害調査研究特別委員会の会合で打ち出した。にもかかわらず半年後、2人の研究に関する記事が掲載された。

 緩やかだった初期の検閲。どんな事情があったのか。

(2023年9月21日朝刊掲載)

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