×

連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 画家 ガタロさん(73) 詩人・画家 四国五郎

死者の無念 筆に託して

 40年近く清掃員として働きながら創作を続けてきた。3年前に仕事を辞めてからは専ら描いている。「四国先生と会い、自分が立って息しとる場所を強く意識するようになった」。原爆で壊滅した広島の「いま」を問い、手を動かす。「わしらは、無数の死者の上に立っていることを、忘れてはならんのです」

 「四国先生」とは、広島で「市民画家」として親しまれた四国五郎さん(1924~2014年)。反戦反核の志を終生、絵や言葉で表現し続けた人である。峠三吉の「原爆詩集」の表紙絵や絵本「おこりじぞう」などでも知られる。

 四国さんは現在の三原市大和町に生まれ広島市で育つ。画才に恵まれ幼い頃から画家を志すも時代がそれを許さない。従軍やシベリア抑留を体験して死の淵をさまよい、ようやく戻った戦後の広島で、最愛の弟の被爆死を知る。理不尽に命を奪う戦争や原爆への悲憤を原動力に、膨大な作品を世に送り出した。被爆地に根を張り、いわゆる「画壇」とは距離を置いた。

 そんな「先生」との出会いは1980年代半ば。図書館で四国さんの画文集「広島百橋」を見て、「直感的にやられた」。広島に架かる橋を描いた一冊から「息をするような素描力、地に足の着いたにじみ出るような土着の思想的基盤」を感じた。心打つ言葉にも出合った。〈この街に生きていて、戦争につながる現象に敏感に反応しこれを防ぐ側に立たない人がいるとしたら、それはもう人間ではあるまい〉

 「どうしても会うて薫陶を受けたい」。そう思っていたとき、四国さんたちが55年に創設し毎夏広島で開いていた平和美術展のニュースが目に留まった。原爆養護ホームで入所者の似顔絵を描く活動の告知。「ここに行けば会える」と飛び込みで会場へ。勝手に「弟子」を名乗って、付いて回るようになった。

 四国さんのアトリエを訪ねたある日、絵日記のようなスタイルでまとめた千ページ近い手描きの自叙伝「わが青春の記録」を見せられた。普段は物静かに絵筆を握る「先生」のすさまじい体験と戦争への怒り、それを克明に記録する執念に触れた。

 親子ほど年の離れた「先生」はちょうどその頃他界した父親代わりに思えた。漆職人だった父は近距離で被爆。体験はほぼ語らず「地球の終わり」とだけ述べた。父が語らなかったヒロシマのディテールを四国さんを通じて学び、描きとどめるようになった。

 「広島百橋」で四国さんは橋についてこうつづる。〈まこと自己主張しないで、その機能だけをまじめに果たしている〉

 「自己主張せず、右からも左からも人を渡す。わしから言えば、四国先生が橋のような人」。市役所に勤めながらチラシやイラスト、ポスターなど数々の依頼を「平和のためなら」と快く引き受けた。表現を通し、黙って人と人をつないだ。

 橋のような「先生」が一つだけ「渡してはいけない」と挙げたものがある。「戦争勢力。それを渡せば橋自体が壊れてしまうと」。その言葉を胸に刻んでいるだけに、世の危うい空気に敏感になる。先進7カ国首脳会議(G7サミット)が被爆地で「核抑止」を前提にした文書を採択したことにも怒りが収まらない。

 「その先にあるのは何か。わしらの想像力が試されとるんです」。「先生」の形見の上着をまとい、今日も思考し筆を振るう。(森田裕美)

がたろ
 1949年、広島市生まれ。子どもの頃から絵を描き、高校では自ら美術部をつくって部長に。卒業後は大阪の印刷会社に就職。職を転々とした後、古里に戻る。80年代半ばから市営基町アパート内で清掃の仕事をしながら「清掃員画家」として活動。現在は仕事を辞め、創作に専念。国内外で個展やグループ展を開く。安佐南区在住。

四国五郎と峠三吉
 1948年広島に復員した四国五郎は、峠三吉(1917~53年)が49年に創刊したサークル詩誌「われらの詩(うた)」の活動に参加。占領期の言論統制下、社会への批判や反戦・反核の声を、詩と絵をセットにして街頭に張りだす「辻詩(つじし)」の活動でも協働した。峠の「原爆詩集」初版(51年)の表紙絵や装丁も手がけた四国は、平和記念公園(中区)に立つ峠の詩碑も設計した。

(2023年9月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ