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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <7> 内閣総辞職 「国益」配慮 爆殺の真相隠す

 張作霖(ちょうさくりん)爆殺は昭和3(1928)年6月の発生後、日本軍の仕業であると国際的に報道された。田中義一首相は同年10月、憲兵司令官報告で関東軍の河本大作参謀の犯行と確認した。

 田中から報告を受けた元老の西園寺公望(きんもち)は、真相公表と厳正処罰により軍紀を正すよう求めた。同意した田中は同年12月下旬、その方針を昭和天皇に内奏し、日本軍人の関与についても触れた。

 ところが、陸軍首脳部は公表阻止に動く。政友会幹部や閣僚の大半も「国益を損ねる」と河本を裁く軍法会議の開催に反対した。公表すれば満蒙(まんもう)権益が脅かされると彼らは主張した。

 政府が「満州某重大事件」と呼んだ爆殺の真相は、政界中枢にも知れ渡る。野党の民政党は政府を揺さぶる材料にしたものの、やはり「国益」配慮から真相の暴露は自制した。

 「ハハーやったな」と事件当初から疑いの目を向ける現地の邦人記者も一、二にとどまらなかったという。報道規制に加え自主規制も働いたためだろうか、新聞は真相を暴いて国民に知らそうとはしなかった。

 公表反対論に包囲された田中首相は方針転換する。昭和4(29)年6月27日、犯人不明のまま責任者の行政処分のみ行うと天皇に上奏した。天皇は「それは前とは変わっている」と田中を厳しく𠮟責(しっせき)して辞表提出を促した。天皇はしかし、政府方針自体を覆すことまではしなかった。

 宮中側近との協議を経た対応だった。田中は天皇の怒りに悄然(しょうぜん)となり、内閣総辞職を決断する。真相は公表されず、河本は停職、関東軍司令官は予備役編入という極めて軽微な処分だった。

 次なる謀略を防ぐためには、果断な処罰が必要だった。3年後に再び謀略から満州事変が起き、東アジアを戦争の泥沼に引きずり込む。目先の「国益」を優先した代償はあまりに大きかった。(山城滋)

宮中の対応
 白川義則陸軍大臣が事件真相は公表せずとの政府方針を昭和4年3月に上奏し、牧野伸顕内大臣は言語道断と驚く。宮中と陸軍の正面衝突を招く方針撤回までは求めないが、田中首相の政治責任を問うことで決着を図った。

(2023年9月23日朝刊掲載)

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