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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <5> 隠したかった人体影響

開示の線引き 米の都合で

 連合国軍総司令部(GHQ)が原爆関連の報道統制で特に神経をとがらせたのは、人体への長期的影響だった。プレスコード徹底のため作成された、より具体的な検閲官向け手引書「キーログ」の変遷は、それを浮き彫りにした。

 GHQは1945年11月、文部省(現文部科学省)が編成した学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の第1回総会報告会で「原爆関連は連合軍のトップシークレット」とし、研究発表を許可しないと表明した。

秘密指定の論文

 実際、国内の大学や研究機関の医学論文はことごとく秘密指定され、発表を阻まれた。国会図書館憲政資料室にあるGHQ関連資料を調べると、秘密指定された論文がぞろぞろ出てくる。

 では原爆影響に関する新聞記事は、どれくらい紙面に掲載されたのか。

 占領期の資料を多数所蔵する米メリーランド大プランゲ文庫で中国新聞紙面が残る期間(46年3月24日~49年10月13日、一部欠落)に限れば、27本を確認できた。

 原爆投下直後から原爆被害の調査に関わる東京帝国大(現東京大)医学部の都築正男教授や、広島逓信病院(現広島市中区)などが主要な情報源の記事が15本、残る12本は米側が情報発信に関わった記事だった。

 被爆1年後に同特別委の成果を取り上げた記事(46年8月8日付)は、人体影響の分析と、子孫の観察を今後の課題と指摘した内容だった。また、米原子力委員会の生物学医学部長の議会証言を取り上げた記事(49年7月14日付)では「爆弾の永続的作用もみられない」と被爆の長期的影響を否定。今日から見れば誤った見解を述べている。

 人体影響に関する情報を厳重に管理した一方、一定の情報は出していたのだ。その線引きはどこにあったのか。

 GHQ文書をたどるうち、ヒントになりそうなものを見つけた。「長崎の鐘」(49年1月発行)の出版を認めるかどうか、内部協議を記録した文書(47年4月10日)である。

 長崎で被爆した永井隆・長崎医科大(現長崎大医学部)助教授が自身の負傷や救護活動などについて記した「長崎の鐘」。文書では、GHQ内の経済科学局に見解を求められた公衆衛生福祉局が「出版に反対しない」と回答していた。「(本の記述は)長崎の原爆による人体の物理的影響についての常識的知識。新聞その他で繰り返し報道されている」からだ。

 秘密にしておく価値が失われたか、米側にとって都合のいい情報―。こうした基準が報道統制にも反映されていたのは間違いないだろう。

占領明けに刊行

 GHQが発表を禁じた研究論文の詳細は53年3月、国内でようやく日の目を見た。「原子爆弾災害調査報告集」(日本学術会議・原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編)が刊行され、残留放射線や白血病などの具体的なデータを含んだ130編が収められた。占領終了から1年近くたっていた。

(2023年9月26日朝刊掲載)

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