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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <6> 3人の米国人

記者ハーシー氏を警戒か

 ジョン・ハーシー氏(1914~93年)ノーマン・カズンズ氏(15~90年)フロイド・シュモー氏(1895~2001年)。原爆投下で廃虚となった広島を早い時期に訪れ、被害を世界に伝えたり援助したりした米国人といえば、この3人が挙げられるだろう。

 ジャーナリストであるハーシー氏は、原爆被害を初めて海外に伝えるルポ「ヒロシマ」で世界的反響を呼んだ。同じくジャーナリストのカズンズ氏は、広島の戦災孤児の救援のために「精神養子運動」を提唱。ケロイドを負った女性の渡米治療にも貢献した。平和活動家のシュモー氏は、被爆者のために家を建てる活動を進めた。平和主義を信奉するクエーカー教徒であった。

検閲で明確な差

 3人の活動は、連合国軍総司令部(GHQ)によるプレスコードに縛られた中国新聞紙面にも、しばしば登場した。しかし、検閲上の扱いには明確な差があった。

 唯一、検閲対象になったのはハーシー氏に関する記事である。本紙では1946年3月~49年10月に計30本が掲載され、うち20本が対象となっていた。残る10本のうち8本は検閲されず、2本は不明。

 これに対し、カズンズ氏は掲載された9本全てで検閲なし。シュモー氏を直接取り上げた記事は14本あったが、いずれも検閲の対象外だった。ハーシー氏に対するGHQの警戒感を見て取れる。

 ハーシー氏は46年5月、広島市を訪れ、約3週間滞在。広島流川教会の谷本清牧師ら6人の被爆者の体験とその後の生活を取材し、同8月、米国の文芸週刊誌「ニューヨーカー」に「ヒロシマ」を発表した。発売日に全部数の29万9046部を売り尽くしたという。

 2カ月後、本紙にもその反響の大きさを紹介する記事「米言論界に大旋風」が載っている。月刊誌「世界」などでも紹介された。

 しかし、関連の記事は載るのに、肝心のルポ自体の翻訳が日本で出版されない状況が続いた。

 なぜか。実はニューヨーカー編集部は原爆開発計画の責任者、レスリー・グローブス陸軍少将にひそかに「ヒロシマ」のゲラを渡していた。事実上の事前検閲である。米ジャーナリストや繁沢敦子・神戸市外語大准教授の調査で判明した。こうした事情も日本語版の発行に影響した可能性を指摘する声がある。

 GHQは、この事態を把握していたのか。国立国会図書館憲政資料室(東京)にある膨大なGHQ関連資料の中から手がかりを探したが、確認できなかった。

発刊に2年以上

 日本語版は49年1月に発行が認められ、法政大出版局が同4月に刊行した。ニューヨーカー誌での発表から約2年8カ月たっていた。

 その後、ハーシー氏に関する記事7本が本紙に載ったが、全て検閲の対象外になっていた。この中に「ヒロシマ」が昭和天皇、皇后両陛下、皇太子時代の現上皇さまに献上されたとの記事がある。通常、皇族について書かれた記事は検閲されたため異例の対応だろう。その理由に関するGHQ文書も見つけることはできなかった。

(2023年9月27日朝刊掲載)

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