×

連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <4> 朝日新聞の発行停止

投下非難の鳩山発言掲載

 記事94本と広告1本。連合国軍総司令部(GHQ)が発したプレスコードによる事後検閲で「違反」とされた中国新聞記事などの総数である。うち原爆関連の記事は1本。GHQ資料などを調べると、違反に伴う本紙への発行停止処分はなく、文書による注意にとどまっていたようだ。

 検閲による新聞社への処分を巡っては、占領開始直後に朝日新聞が受けた発行停止が知られる。処分が出たのはプレスコード発令前日の1945年9月18日。既にGHQ傘下の民間検閲局(CCD)が活動していた。処分理由は、GHQが10日に検閲の実施方針を示した際に出した覚書違反。同社は19、20日の2日間、東京本社版の朝刊を発行できなかった。

 違反とされた記事は15~17日に掲載された計5本。当時のデスクで後に社長を務めた森恭三氏の著書「私の朝日新聞社史」によると、「新党結成の構想 鳩山一郎氏」(15日付)「求めたい軍の釈明 “比島の暴行”発表へ国民の声」(17日付)の2本が特に問題視されたという。

復興協力求める

 後に首相となる鳩山氏へのインタビュー記事には、原爆投下を非難する内容が含まれていた。

 鳩山氏は「米国が“正義は力なり”を標榜(ひょうぼう)する以上、原爆の使用や無辜(むこ)の国民殺傷が国際法違反で、戦争犯罪であることを否定できない」などと主張。被爆地の惨状を視察し、復興に協力するよう米側に求めた。

 こうした発言が「占領軍に対する誹謗(ひぼう)であり、占領政策を阻害するものであるとされた」(朝日新聞社史 昭和戦後編)のである。

 森氏は著書で当時の思いを明かしている。「占領軍の忌憚(きたん)にふれるかもしれないが、日本国民としてどうしても言っておかなければならぬことと考え、あえて載せました」

 さらに「この発禁事件以後、占領軍の検閲体制は日本軍の検閲以上にきびしいものとなり、しかも検閲で削られたことを暗示するような空白は許されなかったので、とっさの間の穴埋めはじつに困難な操作でした」と述懐している。

 発行停止中の19日、CCD局長ドナルド・フーバー大佐と同社幹部が会談していた。その内容を記録したGHQ文書が残っている。同社側は「鳩山氏はリベラルな考えの持ち主。不注意による言い間違いだったかもしれない」と釈明した、としている。

「利益に反する」

 同社への処分は、GHQが占領直後から原爆報道を懸念していたことをうかがわせる。占領史に詳しい袖井林二郎・法政大名誉教授は共著「講座・コミュニケーション5 事件と報道」で、原爆報道が、プレスコードで禁じた「連合国や占領軍の利益に反する批判」などに当てはまったと指摘する。

 この処分を境に、各紙から原爆記事が減っていった。

  ≪朝日新聞が発行停止処分を受けた一因となった鳩山一郎氏インタビュー記事(1945年9月15日付東京本社版朝刊)の原爆関連部分の抜粋≫

 “正義は力なり”を標榜(ひょうぼう)する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜(むこ)の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否(いな)むことは出来ぬであらう、極力米人をして罹災(りさい)地の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自からの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を率直に披歴し日本の民主主義的復興、国際貿易加入が米国の利益、世界の福祉と相反せぬ事実を認識せしむることに、努力の根基を置き、あくまで彼をして日本復興に積極的協力を行はしむる如(ごと)く力を致さねばならぬ
※原文のまま。漢字は新字体に改めた。

(2023年9月23日朝刊掲載)

年別アーカイブ