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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <7> 峠三吉の懸賞論文

検閲ばらつき 「労組」反応か

 米軍が投下した一発の原爆によって広島市が壊滅してから1年。中国新聞が「被爆1周年記念事業」として募集した懸賞論文「ユートピアの広島の建設」の入選作品が本紙1面(1946年8月1日付)で発表された。

 171編の応募作品から1等に選ばれたのは峠三吉の「1965年のヒロシマ」。峠は後に「ちちをかえせ ははをかえせ」で知られる「原爆詩集」を出し、名を世に広めることになる。

 峠の作品は2~4日付で3回に分けて連載された。言論の自由が抑圧されたプレスコード下、原爆を告発した峠。本紙に載った作品は検閲でどんな扱いを受けたのか。関連記事も含めて調べると、検閲に一貫性がなかったことが分かった。

 まず論文募集の告知記事(6月27日付)は検閲対象とされていた。しかし、入選作品の発表記事は検閲なし。連載の初回は、検閲紙面が米メリーランド大プランゲ文庫に保存されていないため不明。2回目は検閲を受けていなかったが、終わりの3回目はまた対象となった。

復興後の姿描く

 連載のうち、なぜ3回目は検閲を受けたのか。

 峠は作品で被爆から20年後の広島を想像し、復興した街の理想の姿を描いた。

 主人公は、8月6日の式典に出席するため「オホサカ」から「弾丸列車」で広島市を訪れる。地下鉄が走り、大劇場や官庁が整備された街を目にするのが初回だ。2回目で取り上げたのは農畜産業の活況。瀬戸内海の島々は世界的な果樹園に覆われ、酪農製品は国内外に送られているとした。

 3回目では国営畜産加工工場が登場する。そこで働いているのは男女がほぼ半数ずつ。工場の運営は労働組合が担い、工場長は選挙で選ばれた女性が務めている。

 そして6日。1万人が参列して午前8時15分に始まった式典で「市長」はこう語る。「あの町を包んだ焔(ほのお)の色、あの叫喚呻吟(しんぎん)の声を今余りにも鮮(や)かに想ひ出す時、今更ながら人類の敵民族の敵軍閥財閥に対する憤りが生々しくこみ上げて参ります」(原文ママ)

「憤り」が原因も

 プレスコード下では労働運動にも厳しい目が注がれた。3回目が検閲対象になったのは、登場した「労働組合」が問題視されたからか。それとも市長発言に込められた「憤り」が検閲官に引っかかったからなのか。裏付ける資料はなく、想像するしかないのだが。

 この作品の筆者は、一緒に応募した峠の兄一夫だとする説が一時流れた。その後、峠自身による草稿が見つかったが、市民団体「広島文学資料保全の会」の池田正彦事務局長は「峠と兄の合作とみればよいのでは」との見解だ。

 峠は当時29歳。広島青年文化連盟委員長に就き、文化活動を本格化させていた。一夫は戦前、反体制運動に関わって旧制三高(現京都大)を退学になり、労働運動に身を投じた。作品に出てくる労働組合の姿は一夫の夢だったのかもしれない。

(2023年9月28日朝刊掲載)

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