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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <10> 統帥権干犯 軍縮条約反対 倒閣の材料に

 民政党の浜口雄幸(おさち)内閣は昭和5(1930)年1月、金解禁に続いて海軍軍縮に乗り出す。二つの政策は国際協調を進める上で表裏一体の関係にあった。

 金解禁は緊縮財政とセットであり、米、英の金融支援も必要とした。両国を相手に補助艦の制限を交渉するロンドン海軍軍縮会議の参加に浜口内閣は積極的だった。海軍軍縮は緊縮財政に寄与する利点があった。

 同年3月に軍縮案がまとまる。日本の保有量は補助艦全体で対米69・75%と目標7割をわずかに下回り、内閣は条約締結の方針を決めた。

 天皇に直属して作戦・指揮を統括する海軍軍令部はこれを承服せず、軍令部長は慎重審議が必要と昭和天皇に上奏した。

 不況が深刻化する前の同年2月の衆院選で、民政党は解散時より100多い273議席を得た。63減の174議席と大敗した政友会は、田中義一の急死後に犬養毅が総裁、森恪(つとむ)が幹事長に就いていた。

 森は起死回生の倒閣の材料として軍縮条約問題に飛びつく。軍令部の反対を無視する条約締結は「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」に当たると内閣を攻撃。軍部や枢密院に手を回し、矛を収めかけた海軍の条約反対派は勢いづいた。

 犬養も党利党略路線に乗って国会質問に立つ。議会主義の基盤を自ら掘り崩す行為で、「憲政の神様」の矜持(きょうじ)は傷ついた。浜口内閣は条約締結貫徹で一歩も引かず、枢密院も同年10月に条約批准を決めた。

 衆院選での国民の信任を背景に軍縮を敢行した浜口内閣は戦前で最も民主的な政権だった。一方で、金解禁に伴い産業の国際競争力を強化する政策の軸足は財界にあった。国民生活はやがて昭和恐慌に翻弄(ほんろう)される。

 同年11月、浜口首相は東京駅で右翼団体員に銃撃された。病状悪化で翌昭和6(31)年4月に浜口内閣は総辞職した。同じ民政党の第2次若槻礼次郎内閣が発足した5カ月後、満州事変が勃発する。(山城滋)

ロンドン海軍軍縮会議
 日本の全権は元首相の若槻、財部彪(たからべ・たけし)海軍大臣らで、昭和5年3月13日に妥協案がまとまる。海軍の加藤寛治軍令部長らは大型巡洋艦の目標未達成、潜水艦の大幅削減などを理由に反対した。

(2023年9月28日朝刊掲載)

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