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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 加納莞蕾の戦犯釈放運動

平和への「内省」私たちに促す

 「戦犯」という言葉は今の時代に通じるのか、不安になるが、日本人が記憶すべき節目だろう。ことしは1953年当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノの決断による日本人BC級戦犯釈放から70年になる。

 真庭市出身の真言宗僧侶、加賀尾秀忍の古い手記「モンテンルパに祈る」を読んだ。49年にマニラの郊外モンテンルパにある戦犯刑務所へ教誨(きょうかい)師として赴くが、僧形のため「囚人」の膳を出されて彼は驚く。湾には日本艦船の残骸、街には砲弾の箱や爆撃の跡。日本人には日本語の罵声が飛んだ。

 戦犯の減刑に奔走するさなかの51年年明け、元陸軍大尉ら14人の刑が突如執行され、獄舎に衝撃が走る。明らかに無実の人が含まれていたが「死に顔を見てくれ」と懇願されて絞首台へ。全員の最期を見届けた。その後、キリノの決断で残る戦犯に赦免の道が開けた結末を感慨を込めてつづる。

 同じ頃、旧知の元海軍少将ら戦犯の助命嘆願書を安来市からキリノに送り続けた男がいた。日本画家加納莞蕾(かんらい)(本名辰夫)である。同市広瀬町布部の加納美術館では今、一連の嘆願関係資料が公開され、従軍画家から戦後の布部村長に至る莞蕾の軌跡をたどれる。

 45年2月に起きたマニラ市街戦でキリノは日本軍に妻子を殺された。その人が戦犯14人の処刑から2年後の53年7月、100人余りの戦犯を赦免する。莞蕾の四女佳世子(加納美術館名誉館長)が著した評伝「画家として、平和を希(ねが)う人として」によると、「よかったですね」と村人が告げると「そうではないんだよ」と莞蕾は答えたという。終身刑に減刑された戦犯を含め、あなたの最愛の家族の名において全てを赦(ゆる)してほしい―と引き続きキリノに求めたのだ。

 また戦犯の赦免には日本側の勧告が必要だと知ると、それは国民の意思でも可能ではないかと主張し、自らキリノに勧告文を送る。「赦し難きを赦す」にはキリノをどう説得するか、突き詰めることで莞蕾の平和思想は磨かれた。

 そして半年後の同年12月末、大統領任期満了に合わせて全戦犯が釈放される。この半年が莞蕾にとって正念場だった。佳世子は「戦犯は『課題』を背負って赦されるべきだ、と父は考えていました」と明かす。課題とは平和の実現であり、自らにも課した。「世界児童憲章」の私案を練り、村長になると「布部村平和五宣言」を8月6日付で議会決議させた。愛児を殺した者たちの側をキリノは赦した。その真意をくみ取ったことを意味する実践だったのだろう。

 むろんキリノは私人ではない。荒廃した祖国の再建、賠償請求を含む日本との外交、米ソ冷戦体制への移行などの難題を背負っていた。国内世論を無視できない立場だが、寛容を旨とするカトリック信徒でもあった。「フィリピンBC級戦犯裁判」の著者で広島市立大広島平和研究所教授の永井均は「どの要素が欠けても彼の決断は成り立たなかった」とみる。

 莞蕾の嘆願はキリノを直接動かしたのだろうか。側近の返書はあるが、キリノ自身の返書はない。しかし「5年近くも英文で国際的な嘆願運動を続け、キリスト教会連盟などを動かした事実は際立っています。現存する返書によってキリノがいつ死刑停止を決断したかも分かりました」と永井。一連の書簡を戦後の日比関係を検証する外交文書としても評価する。

 「他者の存在にまなざしを向ける加納画伯の姿勢」と永井は莞蕾の評伝で解説している。あまたの市民に犠牲を強いたマニラ市街戦を沖縄戦や広島・長崎への原爆投下の前史と位置付けている。だが「マニラ」は日本人の戦争の記憶に刻まれないまま歳月が流れた。他者の存在にまなざしを向け、己を突き詰める莞蕾の平和思想は、今も決して古びてはいないように思える。(文中敬称略)

(2023年9月28日朝刊掲載)

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