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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <8> 平和都市法とGHQ

成立後から緩んだ検閲

 1948年に入ると、原爆で廃虚と化した広島市で復興に向けた動きが本格化する。中国新聞の紙面にも関連の記事が増えていった。

 多額の費用がかかる復興事業に国の支援は欠かせない。市は国に要請を繰り返したが、色よい返答をもらえない。全国で米軍の空襲被害を受けた都市は多く、広島だけを特別扱いすることが難しかったからだ。まして原爆を投下したのは米軍。米国を中心とした連合国軍総司令部(GHQ)が、占領政策の中で特別扱いを認めるのか。

理想実現の象徴

 広島市の関係者らは、財政面で復興を支える新法の制定に活路を求めた。それには単なる復興を超える、まちづくりの理念が不可欠だった。

 任都栗司・市議会議長と地元選出国会議員は49年2月、国会運営にも詳しい市出身の法曹家に法案の作成を求めた。当時参院議事部長だった寺光忠氏。寺光氏が着目したのは新憲法が掲げた「恒久平和」である。

 寺光氏は7条からなる法案を起草した。「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」。第1条で世界平和のシンボルとなる都市づくりを打ち出した。

 これがGHQと日本政府の首脳を動かす。特別法「広島平和記念都市建設法」は49年5月11日、国会で成立。7月7日に国内初の住民投票が行われ、約91%の賛成を得て被爆4年後の8月6日に公布された。

 本紙も法制定の経緯を丹念に追っていた。記事の検閲状況を調べると、興味深い傾向が浮かび上がった。5月の法成立を境に対応が明らかに異なるのだ。

 当時の浜井信三市長らが援助要請のため上京するとの記事が載ったのが49年2月9日付。要望活動が本格化したこの時点から、法が成立し関連記事の掲載が終わった6月19日付までの約4カ月間の状況をまず見る。

 検閲対象になった記事が67本あったのに対し、「なし」は6本。不明7本。ほとんどが検閲を受けていた。

 一方、住民投票に焦点が移った6月20日付から、報道が終わる7月13日付までの1カ月弱では「あり」は7本だけ。「なし」は50本にも上った。不明3本。法成立前とは全く逆の傾向である。

「お墨付き」背景

 法成立後に薄れた検閲の影。何があったのか。残されたGHQ文書から明確な答えを探し出すことはできなかった。ただ、背景の一つと言えるのがGHQのマッカーサー最高司令官の「お墨付き」である。

 49年2月、マッカーサー氏と任都栗氏が会談した。その2カ月前、GHQ幹部が原爆傷害調査委員会(ABCC)施設用地の問題で任都栗氏に協力を求めた席上、任都栗氏が逆に復興支援を強く求めたことが会談実現のきっかけとなった。

 法案の理念を語りながら支援を求めた任都栗氏に対し、マッカーサー氏は「いいアイデア。しっかりやりなさい」とだけ言ったという。

 広島市の戦後復興の礎となった平和都市法。実現にはマッカーサー氏の後ろ盾を得たことが大きかった。その報道に対する検閲の緩みとも無関係ではないだろう。

(2023年9月29日朝刊掲載)

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