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連載・特集

[ヒロシマの空白] 旧猿楽町住民だった日比さん 育った街と家族 一瞬で奪われた

事実残したい 初めて証言

 爆心直下の旧猿楽町(現広島市中区)に住んでいた日比由夫さん(93)=廿日市市=は78年前のあの日、家族を失い孤児となった。過酷な体験を語ることなく生きてきたが「思い出が詰まった街が消され、人の命が奪われた事実を残したい」と思うようになった。背を押してくれたのは、他の旧猿楽町住民らが記憶を語った8月の本紙記事。「自分も、最初で最後の証言を」。記者に語ってくれた。(新山京子)

 日比さんは5人きょうだいの末っ子として生まれた。旧猿楽町は原爆ドーム東側から紙屋町交差点まで延びる一角で、自宅は現在のおりづるタワー南東側付近。病死した父に代わり長兄が「日比家具店」を開いていたが戦中の物資不足で1945年までに廃業した。

 当時は松本工業学校(現瀬戸内高)3年の15歳で、母と姉と暮らしていた。8月6日は砲弾の製造作業に動員され、爆心地から1・5キロにあった舟入幸町(現広島市中区)の佐伯鋼業に出ていた。「屋外で朝礼が終わった直後に閃光(せんこう)を浴びてひっくり返った」。建物の下敷きになった人を助け、自宅の方角を向くと火の手が上がるのが見えた。

 炎から逃れ横川駅(現西区)近くまで来ると、幼い男児が「連れて行って」とすがってきた。顔は腫れ上がり、歩くのがやっと。次いで「お母さん」と近くにいた女性の方へ歩いて行ったが、わが子だと分かってもらえないほどのやけどだった。「助からなかったろう。今もあの姿を思い出しては胸が苦しくなる」

 猿楽町住民の避難場所だった緑井(現安佐南区)にたどり着いたものの、爆心直下から逃げてきた人は誰もいない。爆心地の北約100メートルの自宅に戻ったのは約1週間後。母ツ子(つねこ)さん=当時(59)=と姉の良子さん=同(17)、長兄の子ども一博さん=同(7)=の遺体を親戚が既に見つけていた。即死だったようだ。

 にぎやかな街は消え、廃虚が残った。終戦直後の混乱期、養子に出ていた兄たちや親戚を頼ることはできなかった。親類の住む広島県府中町の納屋に身を寄せ、畑仕事を手伝い食いつなぐ日々。「野ウサギを繁殖させて売ったことも」。後に広島鉄道郵便局に就職し、定年まで懸命に働いた。

 被爆体験や終戦後の暮らしは「自分にしか分からない苦しみ」だ。妻とわが子にも話したことはなかった。だが、かつて猿楽町で化粧品店を営んでいた住民と、行李(こうり)店だった一家の親族がそれぞれ思いを明かした8月3日付本紙の記事を読み、「先の短い自分に何ができるか」と考えるようになった。

 日比さんは廿日市市内の高齢者施設で妻と暮らす。遠い記憶を手繰りながら、力を込めた。「核兵器を持っていいことなんてひとつもない。私の経験から、感じてもらいたい」

(2023年10月2日朝刊掲載)

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