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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <9> 「投下」批判への対応

「正しく」再教育に腐心

 連合国軍総司令部(GHQ)による占領には、日本を軍国主義から民主主義の国に改革するという大きな目標があった。天皇の人間宣言、新憲法の制定、労働改革、農地改革、財閥解体…。そしてプレスコードによる検閲には、治安を維持しつつ占領政策を円滑に進める側面もあり、民間検閲局(CCD)が実務を担った。

 GHQにはもう一つ、日本国民の再教育を目的とした組織があった。民間情報教育局(CIE)である。GHQの立場から戦争を振り返るラジオ番組を放送するなどしていた。

罪悪感植えつけ

 CIEを象徴する計画があった。「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)。文芸評論家の江藤淳(1932~99年)が日米の膨大な資料を調べ、著書「閉(ざ)された言論空間 占領軍の検閲と戦後日本」(89年)などで全貌を明らかにした。

 具体的に何が行われたのか。江藤は48年2月6日付のCIE文書に着目した。ある提言が書かれていたからだ。

 ちょうど極東国際軍事裁判(東京裁判)の最終論告、最終弁論を控えた時期。被告の東条英機元首相は公判で、日本の侵略を正当化する超国家主義的主張を展開していた。広島、長崎への原爆投下を巡り、一部ジャーナリストが残虐行為だと批判を強めてもいた。提言は、こうした状況に「新たな対応」が必要と強調した。

 江藤の著書によると、原爆投下批判への対応の一つに挙げられたのが、48年4月に広島で開催予定の「原爆の碑献呈式」へ代表を派遣することだった。日本の新聞関係者が、この行事を「正しく(・・・)」解釈するよう指導を求めた。

 しかし、4月の中国新聞紙面を見る限り、献呈式が実際に行われたかどうか確認できなかった。江藤も著書で開催の有無について触れていない。

 その時期の紙面をめくると、該当しそうな行事が5月3日にあった。広島市基町(現中区)に建設された広島児童文化会館の開館式。CIE顧問のハワード・ベル博士(1897~1960)が来賓として出席していたのだ。式典はラジオで全国に生中継された。

 翌4日付の本紙は「童心の天国開く ベル博士らの祝福を浴びて」との見出しで大きく報じた。祝辞を述べるベル博士の姿など写真を3枚も載せている。

交流なども対策

 さらにベル博士は6日、中国新聞本社を訪れた。ただ、その様子は翌7日付で「幹部と懇談したのち社内を参観した」と報じられただけ。行事を「正しく」解釈させる指導があったのか、記事からは読み取れない。

 ベル博士はこの前年の47年1月以降、広島市を何度か訪れていた。本川小(現中区)などで交流を重ね、文房具や児童書を贈った。49年5月には絵本など約1500冊が寄贈され、現在の市こども図書館(中区基町)に「ベル・コレクション」として所蔵されている。

 こうした交流も、CIEによる「広島対策」の一環と考えられるのである。

(2023年9月30日朝刊掲載)

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