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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <11> 3月事件 国内改造目指す陸軍の一歩

 昭和5(1930)年のロンドン軍縮条約締結を糾弾する文言「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」の発案者は北一輝との説が有力である。

 北の日本改造法案を広めた西田税(みつぎ)も雑誌で参戦する。「兵馬の大権を議会に奪い取った」と浜口雄幸(おさち)内閣を攻撃。空前の不景気や生活苦は「為政者の無為無策、俗悪政党政治の結果」とこきおろした。

 統帥権干犯を叫ぶ政治家や軍部、民間右翼の結集は、条約批准後もさらなる策動を招く。

 浜口首相の遭難を受けて議会が混迷を極める昭和6(31)年3月、宇垣一成(かずしげ)陸軍大臣を首班に担ごうとするクーデター未遂が起きた。陸軍の幕僚グループと民間右翼の大川周明が組み、陸軍要職者も関わった。

 国会を目指すデモ隊鎮圧を名目に軍隊を出動させ、騒乱下で大命降下を得る企て。計画のずさんさに加え、宇垣が変心して頓挫したが、政党政治を見限った陸軍が国内改造に向かおうとした最初の一歩だった。

 政友会の森恪(つとむ)幹事長は院外団による倒閣国民大会をクーデター予定前日の3月19日に開いた。内閣不信任案を提出し、企てとの合流を考えていた疑いがある。大川は社会民衆党の赤松克麿(かつまろ)にも動員を働きかけ、右派無産政党が軍部や右翼と結ぶ端緒ともなった。

 後に3月事件と呼ばれるクーデター未遂は闇に葬られた。宇垣は陸相を辞めたが、陸軍の要職者や幕僚たちは何ら責任を問われなかった。軍紀の乱れはやがて下克上の時代を招く。

 一方、与党の民政党は昭和6年4月、若槻礼次郎首相の下で行政整理の検討を始めた。陸軍参謀本部と海軍軍令部の廃止や軍部大臣の文官制も議論された。政権政党が軍をコントロールする仕組みの導入である。

 与党内の議論はしかし、クーデター未遂を起こす軍部の現実とは懸け離れていた。目の前の患部にはメスを入れずに、抜本的な体質改善を叫ぶようなものだった。(山城滋)

3月事件と陸軍
 参謀本部の橋本欣五郎ロシア班長らが大川と画策。二宮治重参謀次長、建川美次第二部長も関わり、小磯国昭軍務局長の命令で永田鉄山軍事課長が計画書を執筆した。

(2023年9月30日朝刊掲載)

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