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近代発 見果てぬ民主Ⅷ <12> 満州事変 「権益守れ」世論に乗じ開戦

 「火蓋(ひぶた)は遂(つい)に切られた」。満州事変の発端となる柳条湖事件の発生を伝える昭和6(1931)年9月19日の中国新聞夕刊には、待ち構えていたような調子の脇見出しが付いている。

 通信社電通の記事には、中国軍が18日夜、奉天北方の満鉄線路2カ所を爆破し、日中の部隊が衝突したとある。無謀な「十五年戦争」の始まりだった。

 爆破は開戦の口実とする関東軍の謀略だった。19日朝、陸軍省と参謀本部は事件の精査抜きで関東軍の出動を是認し、朝鮮からの兵力増派を目指した。

 続く閣議では、南次郎陸軍大臣の報告に対し幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣が関東軍の計画的工作が疑われる情報を提供。民政党の第2次若槻礼次郎内閣は事態不拡大の方針を決めた。朝鮮駐留軍の越境派兵も見合わせとなる。

 当時の中国では国権回復運動が活発化していた。満州を支配する張作霖(ちょうさくりん)が爆殺された後、息子の張学良は国民政府に合流して国家統一がなる。日本に満蒙(まんもう)権益返還を求める声も上がり始めた。

 一方、陸軍中央で総力戦体制づくりに満蒙は不可欠とみる幕僚が台頭した。永田鉄山軍事課長らは昭和6年6月以降、満蒙での武力行使に備え始める。

 関東軍内では満蒙を一挙に武力制圧しようと、石原莞爾(かんじ)参謀らが事変を準備し、永田らと連絡を取る。「下克上」的に軍を動かして政治に関与する彼らの課題は国論の喚起だった。

 同年夏、事件が続く。参謀本部の中村震太郎大尉らが黒竜江省で殺害された中村大尉事件。さらに長春近郊で朝鮮人入植者と中国人が争った万宝山事件。大々的に報じられ、満蒙権益を守れとの世論が高まった。

 関東軍の実力行使のうわさが広まる。外相の抗議で陸相が阻止に動くと謀略がはじけ、陸軍は直ちに戦闘モードに入った。中国新聞は9月20日朝刊の社説で「支那(中国)側の暴戻(ぼうれい)の挙」への「正当防衛」として軍事行動を支持した。(山城滋)

当時の関東軍
 兵力約1万。事変開戦後に旅順から奉天に司令部を移し、満鉄培養線の沿線都市を占領した。総兵力45万の張学良軍に対抗して満蒙全域を占領するには朝鮮駐留軍の支援が不可欠だった。

(2023年10月3日朝刊掲載)

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