ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <10> 読売新聞の「ボツ」記事
23年10月4日
本紙には掲載 映す矛盾
プレスコード違反のため「ボツ」になった読売新聞の原爆関連記事は2本―。同社が1984年に出版した「マッカーサーの新聞検閲 掲載禁止・削除になった新聞記事」で触れている。著者の高桑幸吉氏は、渉外部次長兼検閲課長として連合国軍総司令部(GHQ)側との対応を担った。
掲載禁止の2本
全国紙は45年10月5日から2年9カ月余り、発行前のゲラをGHQ傘下の民間検閲局(CCD)に提出する事前検閲を強いられた。掲載禁止を指示された2本は「広島に原爆研究所」(47年12月27日提出)と、広島流川教会の谷本清牧師(09~86年)による寄稿(西部版、48年6月18日提出)である。
原爆研究所とは当時、米国が広島市内に建設場所を探していた原爆傷害調査委員会(ABCC、現・放射線影響研究所)のことだろう。同書によると、原稿は検閲で一時保留扱いになったが、5日後に掲載禁止に。占領政策に触れたことが理由とみられるという。
その頃の中国新聞の紙面を繰った。読売がゲラを提出した日と同じ日付で「ヒロシマに『原爆研究所』 恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた) 日米科学の粋」との見出しの記事があった。検閲の有無を調べたが不明だった。
本紙記事では「今後20年間にわたり、主として医学的分野の総合研究を行う画期的な貢献」などと強調。日米の担当者と広島県知事、広島市長らが懇談し、設置に向けた重要な打ち合わせをしたと報じる。
異なる検閲支局
読売の記事とそう変わらない内容とみられる。なぜ読売は掲載を禁じられ、本紙には載ったのか。
この時、全国紙が事前検閲だったのに対し、本紙を含む地方紙は事後検閲。検閲業務を担ったのも読売はCCD第一支局(東京)、本紙は同第三支局(福岡)と異なる。こうした事情が影響したと考えられるが、明確な理由は分からない。
同書では禁止理由について「科学記事に関する検閲方針は未(いま)だ確固たるものにはなっていない」と、当時の分析が記されている。
一方、掲載禁止になったもう一つの寄稿を巡っては、同書に理由に関する記述はない。
寄稿は、谷本牧師が「広島キリスト教会連盟委員長」の肩書で執筆。広島の宗教家たちが世界宗教平和会議の広島開催の誘致に乗り出したことを伝える内容である。
英訳された上で検閲された寄稿は、日本の占領期資料を多数所蔵する米メリーランド大プランゲ文庫のブログで公開されている。「HOLD」(保留)の隣に「SUPPRESS」(掲載禁止)のスタンプが押されている。
谷本牧師は米国人ジャーナリスト、ジョン・ハーシー氏(14~93年)のルポ「ヒロシマ」に登場した被爆者の一人。世界に被爆の惨状を発信した作品は当時、日本語版の出版が認められていなかった。本紙でもハーシー氏の関連記事に対する検閲が相次いでいた。
世界宗教平和会議の広島開催に関する記事も、実は本紙に載っている。読売が寄稿のゲラを提出した約7カ月前の47年11月30日付。「世界宗教平和会議 原爆の地広島で 宗教を通じ平和を確立」との見出しだった。
原爆記事に対する検閲の厳格さと、徹底し切れぬ曖昧さ。掲載を禁じられた読売の2本は、その矛盾を映し出す。
(2023年10月4日朝刊掲載)