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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <13> 事変拡大 戦意高揚の紙面 軍を後押し

 満州事変の開戦3日後の昭和6(1931)年9月21日、朝鮮駐留軍が独断で越境して満州に入った。

 不拡大方針を踏みにじる暴走に民政党の若槻礼次郎首相らは憤慨する。外地出兵は閣議決定を経て天皇裁可を得る必要があり、統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)だと非難の声が上がった。陸軍大臣や参謀総長は一時は辞職も覚悟した。

 陸軍をどう統制するか。若槻首相は昭和天皇の力を借りようとするが、側近は天皇が政治に巻き込まれるのを恐れた。程なく首相は「出たものは仕方ない」と出兵を容認した。一方で、不拡大方針の徹底を求める天皇の指示を陸軍トップに伝えた。

 若槻内閣が関東軍の暴走防止に努めているときに、新聞はそろって戦争熱をあおった。

 中国新聞は開戦5日後、写真特集号外で「わが軍」の活躍を伝えた。日曜夕刊の発行も始める。本紙後援の広島市在郷軍人会軍事大講演会の記事には「座して死を待たんか 起つて国難に!」の見出しが躍った。

 国内世論に勢いづいた関東軍は満鉄沿線外へ出兵し、11月に北満州のチチハルを占領した。

 同じ頃、内地から増援軍の派遣が始まり、宇品港に兵士が集結する。地元の第五師団が出発した12月21日、見送りの人波が沿道を埋めた。従軍取材する本紙記者2人も同行した。

 本紙は囲み記事で「行け行け中国健児」と郷土兵を激励。地方版に「貧しい女性が黒髪を切って得た5銭と貯金10銭を」など慰問金捻出の美談が載る。

 戦意高揚の記事、写真で埋まった紙面は新聞社業の伸展を促す。本紙は高速輪転機を導入するなど経営拡大を遂げた。

 関東軍は満州国建国に向け、清の元皇帝溥儀(ふぎ)を招いた。若槻首相は軍部を抑えるため政友会との協力内閣を模索した末、同年12月に内閣総辞職に至る。

 政友会総裁の犬養毅が内閣を率いて間もない昭和7(32)年1月、またも謀略による上海事変が勃発した。(山城滋)

上海事変
 満州国建国から列強の目をそらそうと日本人僧侶襲撃事件が仕組まれ、上海で海軍陸戦隊(後に陸軍も派遣)と中国軍が激戦を展開。直前に関東軍は張学良の暫定拠点の南満州・錦州を占領していた。

(2023年10月4日朝刊掲載)

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