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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <11> 「あの日」の写真 初掲載

見つからない検閲文書

 原爆投下当日の広島市街地の生々しい惨状を焼き付けた写真は5枚しかない。中国新聞社の写真部員だった松重美人(よしと)氏(2005年に92歳で死去)が撮影した。

 世に出たのは被爆翌年の1946年7月6日。中国新聞社を親会社とする別会社が発行していた「夕刊ひろしま」の2面だった。「世紀の記録寫眞(しゃしん)」などの見出しの記事と写真3枚を掲載。うち2枚が爆心地から2・2キロの御幸橋で撮った松重氏の写真である。

6日後に「違反」

 この時期の掲載になった背景にはプレスコードの存在があった。46年6月の創刊で、地域色の強い話題が多い夕刊ひろしまも事後検閲された。記事からは検閲に対する懸念が読み取れる。

 「米誌が全世界へ紹介」との脇見出しで、米国を代表したグラフ誌「ライフ」に言及。「『ライフ』に版権一万ドルで掲載したいと希望したが承諾しなかった」とある。これらは検閲をかいくぐるための方便とみられる。同誌が初めて載せたのは占領終了後の52年9月だ。

 それでも記事はプレスコード違反と判断されたという。原爆文献の検閲を研究してきた広島市出身の詩人堀場清子氏が著書「禁じられた原爆体験」(95年)で指摘した。

 堀場氏は米メリーランド大プランゲ文庫を訪れ、連合国軍総司令部(GHQ)の「非公式覚書」を見つけた。日付は掲載の6日後。著書によると「一部は不穏」「ある部分はうわさに基づいており反合衆国的」などと違反理由を挙げた。

 今回、覚書をはじめ、この記事の検閲文書を確認しようとしたが見つからない。存在しないというのだ。

紛失との推測も

 国立国会図書館(東京)は、同文庫に残る膨大な占領下の検閲資料全てをマイクロフィルム化して保管しているとする。資料請求すると記事のコピーは入手できたが、肝心の検閲文書は「存在していない」との回答。しかし、違反とされた夕刊ひろしまの他の記事には検閲文書がある。同館憲政資料室のスタッフは「理由は分からない」と話す。

 同文庫に現物があるかもしれない。メールで問い合わせると、担当者から「確認したが、現時点では見つかっていない」と返信があった。

 堀場氏によると、同文庫を集中的に調査したのは81年。マイクロ化の作業は93~96年。同文庫の担当者は、調査から作業までの間に何らかの事情で紛失したと推測する。

 GHQが検閲のため日本全国から提出させた出版物は占領終了後、米メリーランド大に移送。プランゲ文庫と名付けられて保管された。日本に現存していない現物資料も多い。雑誌を例にすると、国会図書館所蔵の現物は、同文庫の総数に対して約2割といわれる。

 占領期のメディア検閲に詳しい山本武利・早稲田大名誉教授は「検閲対象になった新聞や雑誌、書籍などは終戦直後の歴史、文化を刻む貴重な資料。かけがえのない国民の財産」と強調する。今回のような事態も念頭に米側へ資料の返還を求め、日本政府が責任を持って保存・管理するよう提案する。国民が閲覧しやすい仕組みづくりも求める。

 ところで、この記事を巡り、松重氏はGHQの広島の出先に呼び出された。「事前に(掲載の)許可を受けてもらえればよかった。写真の複写を欲しい」と言われた、と生前に語っている。「想像以上に柔らかい対応だった」とも。原爆記事の検閲の実像に迫る上で興味深いエピソードである。

(2023年10月5日朝刊掲載)

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