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連載・特集

ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第1部 原爆記事への監視 <12> 原子爆弾製造禁止の宣言

検閲意識 12行に苦心の跡

「平和擁護広島大会開く」
(1949年10月3日付)の記事全文

 平和擁護広島大会は二日午後二時から広島市流川町女学院講堂で市民二百名が参集して開かれた、まず議長団に松江澄氏を選び、作家畑耕一氏の平和擁護に関する講演があり、意見発表にうつり子供、婦人、労組など各代表者から原爆の日をしのび、あのような悲惨な戦争はくりかえしてはならないとの平和を願う意見を発表、引(き)続き原子爆弾製造禁止の宣言を可決して午後六時閉会

(原文のまま。漢字は新字体に改めた)

 「平和擁護広島大会開く」。1949年10月3日付の中国新聞2面に、そんな見出しの12行の記事が載った。

 大会は前日に広島市の広島女学院中講堂であった。記事は平和を願う意見発表の後、「原子爆弾製造禁止の宣言」を可決したと伝える。

 その内容は記されていない。「自由と平和を保証した日本の民主主義革命は最近極めて危険な状態を示してきました」と始まる宣言の末尾に、こうある。

 「最後に人類史上の最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民として『原子爆弾の廃棄』を要求します」

 被爆から4年余り。この一文は、被爆地広島から発せられた初の「原爆廃棄」のアピールだった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は45年9月に発したプレスコードで言論を監視した。本紙も順守する編集方針を取り、48年には「プレスコードの確守」を社是に掲げる。原爆投下を正面から批判する記事は本紙に載らなかった。

 原爆廃棄を宣言した大会を報じる記事は「米国に対する批判」としてプレスコードに触れたのでは―。そう思って調べたが、意外にも検閲の対象になっていなかった。

 GHQはしかし、目を光らせていた。議長団の一人、松江澄(きよし)氏(2005年死去)は、被爆50年の本紙連載「検証ヒロシマ」でGHQとのやりとりを回想している。当時、広島県労働組合協議会(県労協)会長だった。

 大会は、民間団体が開く初の本格的な反戦平和集会。世界労働組合連盟(世界労連)による「国際平和闘争デー」の一環でもあった。

発言受けて追加

 松江氏はGHQ吉浦情報部(呉市)に呼び出され、大会の内容について質問を受けた。「平和集会だ。戦前の日本のようなファシズムに反対する民主的集会である」。日本の民主化を進める占領政策を意識して答えた。GHQ担当者は、共産主義や過激な反戦・反原爆の集会を危惧するような表情を浮かべたという。

 GHQに事前に見せた宣言文に「原爆廃棄」の一文は入っていない。大会当日、会場の参加者の発言を受けて急きょ付け加えられたものだった。

 同じく大会準備に関わった大村英幸氏(11年死去)も当時の思いを語っている。95年刊行の「占領下の広島 反核・被爆者運動草創期ものがたり」に掲載された。

短く目立たせず

 詩人の峠三吉が参加した広島青年文化連盟の初代委員長である大村氏。大会は「占領政策違反で軍事裁判、沖縄おくりを覚悟せんとできんこと」と考えていた。実際、協力してくれるはずだった浜井信三市長や平和団体が、主催者から相次いで抜けたという。

 大会が開かれたのは朝鮮戦争の1年前。米国とソ連の対立が深まり緊迫の度合いが増していた時期だ。広島では、大会約2カ月前の8月6日に公布・施行された広島平和記念都市建設法により復興事業が本格化していた。  開催を伝える記事を執筆した記者は、それまでの経緯や内外の情勢を知っていただろう。

 記事は短くして目立たせない。しかし「原子爆弾製造禁止の宣言」との言葉は必ず盛り込む―。プレスコード違反にならないよう、ぎりぎりの線を狙って検閲を擦り抜けようとしたのか。わずか12行の記事に、占領下の記者の苦心を思う。=第1部おわり

(この連載は客員特別編集委員・籔井和夫が担当しました)

(2023年10月6日朝刊掲載)

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