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きのこ雲撮影者 13人目判明 広島の榎本隆清さん

現在の安佐南区から 地上で記録 さく裂8分以内か

 1945年8月6日、原爆さく裂直後に起こった原子雲を広島市郊外、現在の安佐南区で収めていた写真の撮影者が判明した。榎本隆清(たかきよ)さん=写真=といい、当時45歳。老舗の写真館を研屋(とぎや)町(中区紙屋町)で営み、旧安佐郡へ疎開していた。地上から記録した原子雲の写真で撮影者名が分かったのはこれで13人となり、不明は2人。計26枚が確認でき、うち23枚が現存する。いずれも原爆資料館が保存している。(元特別編集委員・西本雅実)

〈撮影された26枚に関するより詳しい表を中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトに掲載しています〉

 広島デルタの北側から撮った写真は、原爆被災資料の収集に努めた山崎与三郎さん(1976年に86歳で死去)が爆心地近くの本川小へ53年寄せていた資料から2013年に見つかった。「安佐郡緑井村より」の説明を添えていた。また、初代資料館長の長岡省吾さん(1973年に71歳で死去)の遺族が2017年に館へ寄贈した写真群にも、同じ構図のプリントが含まれていた。

 連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が開けた52年、山崎さんや長岡さんが協力して、東京の出版社が発行した「原爆第1号ヒロシマの写真記録」で「(安佐郡)祇園町方面より」として掲載されていたが、撮影者名や状況は不明だった。

 しかし今夏、毎日新聞大阪本社版1946年8月5日付が、原子雲の形状が同じ写真を載せて「広島県宇(安)佐郡古市町榎本隆吉氏撮影」の説明を付けていたことが浮かび上がり、正しくは「榎本隆清」さんと分かった。

 隆清さんは、創業は1907年の「榎本写真館」を被爆翌年には研屋町で再開し、58年に58歳で亡くなっていた。写真館は現在も続いている。

 「GHQが『きのこ雲』の写真のことで来たという話を夫から聞いた記憶はあります」。隆清さん死去の翌年、写真館を継いでいた長男栄さん(2011年に81歳で死去)と結婚した時子さん(86)は、そう証言した。

 提供を受けた記録をたどると、隆清さんは、写真館当主の太市さん夫妻の養子となり一人娘と30年に結婚。戦時中は3世代で疎開し、太市さんは建物疎開作業へ動員された中島新町(平和記念公園南側)で45年8月6日に59歳で死去。隆清さんが翌月に安佐郡安村(安佐南区)へ届けていた。

 原子雲について、広島壊滅の当夕に調査団を送った呉鎮守府45年9月作成の報告書には、「爆発後四分ニシテ頂高約六千八百米(メートル)(呉ヨリノ実測)約八分後ニハ上部ノ笠ノミ一團(いちだん)トナリテ上方ニ昇リ…」とある。

 隆清さんは、原爆のさく裂約8分までに疎開先であった安村、爆心地から約10キロ内外の場所で撮影した可能性が高い、と資料館学芸担当者もみている。

(2023年10月9日朝刊掲載)

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