×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <15> 五・一五事件 政党政治の時代 8年で幕

 犬養毅は少数政党の党首歴が長かった。合流した政友会で予期せぬ総裁に担がれるが、党内基盤はもろくて弱かった。

 首相に就任直後の昭和6(1931)年12月、犬養は満州事変の収拾に向け腹心の大陸浪人を中国に派遣した。中国の宗主権を認めて満蒙(まんもう)の日本権益を保護する線での秘密交渉は、国内で反対に遭う恐れがあった。

 案の定、満州独立国家の建設に向かう陸軍や閣内強硬派の森恪(つとむ)内閣書記官長らの妨害で交渉は頓挫した。昭和7(32)年1月には軍の独走による上海事変が勃発し、犬養は派兵抑制の当初方針を貫けなかった。

 陸軍大臣には幕僚リーダーや森が推した革新派の荒木貞夫が就いていた。陸軍独自の政治関与を志向する勢力が実権を握り、下克上に拍車がかかる。

 犬養は軍の統制を回復するため陸軍長老に協力を求めたが拒否される。「陸軍の若い連中を30人位首切ってしまえば統制は回復できる」との天皇上奏まで考えた。この話が広がり命取りになったともいわれる。

 犬養は同年3月建国の満州国の承認にも消極的で、軍との対立は深まる。犬養ら要人の暗殺計画を軍首脳はつかみながら積極的に制止しなかった。

 同年5月15日夕、海軍青年将校や陸軍士官候補生らが首相官邸に乱入。彼らの話を聞こうとして和室に通した犬養は、後続将校の「問答無用、撃て」の号令で3発の銃弾を浴びた。血盟団事件に続く「昭和維新」運動の炸裂(さくれつ)だった。

 瀕死(ひんし)の犬養は「話してやるからあの若い者を呼んでこい」と言い、77歳目前で事切れた。自由民権運動の頃から言論で戦ってきた政党人の最期だった。

 五・一五事件を受け、元老西園寺公望(きんもち)は海軍長老で穏健派の斎藤実(まこと)を首班に推す。政党内閣に対する軍の拒否反応や人格優先を希望した天皇の意向も踏まえた判断だった。政党政治の時代は8年間で幕を閉じた。(山城滋)

五・一五事件
 首相官邸以外に内大臣邸を威嚇攻撃、農村青年たちは変電所を襲撃。海軍将校は血盟団の井上日召から後続部隊となるよう託されていた。陸軍青年将校は荒木陸相に期待して参加を見送った。

(2023年10月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ