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連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <3> 猿猴橋(広島市南区)

復元の「夢物語」が現実に

 写真家の土田ヒロミさん(83)が同じアングルで撮った1979年と2019年の写真を比べるこの連載の中で、変化が最もドラマチックな場所だろう。JR広島駅(広島市南区)の南側、猿猴川に架かる猿猴橋。くすみの目立つ御影石の柱は洗浄、修復され、電灯など金属の装飾も備わった。1926年の創建時の姿が再現されたのだ。

 市は2015年度、被爆70年の記念事業として約4億1千万円を投じ、同橋の復元に取り組んだ。装飾はブロンズ(青銅)製で、橋の四隅の親柱は頂上にワシ、欄干には猿の透かし彫りがあしらわれている。太平洋戦争中の金属供出で失われていたのを再び取り付け、原爆の衝撃に耐えた橋の本体は路面を入れ替えた。

 きっかけをつくったのは、住民団体「猿猴橋復元の会」の粘り強い活動だ。準備委員会を経て09年、正式に発足した。「案としてはもっと昔からあったんです」。橋の東側でカメラ店を営み、復元の会で広報を担った増本光雄さん(82)は話す。西側で洋装店を営んだ花輪敬三さん(19年に85歳で死去)から、かつての橋の美しさと復元の夢を聞かされてきたという。「私は正直、できっこないと思っていた」

 07年、その「夢物語」が動き出す。広島駅南口のBブロックと呼ばれた近隣エリアで、停滞していた再開発が加速。橋復元の機運を高める好機と捉えた地元商店主たちがアイデアを持ち寄った。広島市立大などを巻き込みながら、創建時の資料の発掘、往時の姿を伝えるCGの作成といった成果を積み重ねた。新聞報道などで、その活動がより広く知られるようになった。

 募金を経て、まずは親柱を復元したモニュメントを自力で建てるめどが立った14年、市が被爆70年の記念事業への採用を発表。橋全体の復元がかなうことになった。モニュメントはデザインを変えて柱の上部だけとし、橋の西側に据えた。

 16年3月、壮麗な姿によみがえった橋の「渡り初め」は地域の祭りを兼ねて盛大に催された。広島東洋カープの緒方孝市監督(当時)も選手たちと参列し、優勝を誓う。その秋、25年ぶりのリーグ優勝を果たした。増本さんは「駅前再開発や被爆70年の節目とかみ合い、ツキを呼び寄せて復元された橋。霊験あらたかなんですよ」と笑う。(編集委員・道面雅量)

 被爆地広島の姿をカメラで定点記録し、40年の歳月を画像に刻んだ土田ヒロミさんの連作「ヒロシマ・モニュメント」を月1回、2枚組みで紹介しています。次回は11月3日に掲載します。

(2023年10月7日朝刊セレクト掲載)

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