被爆死の父と戦後生きた母 「戦時下の恋文」常石さん出版 原爆に奪われた営み 伝える
23年10月9日
中国新聞社の編集局長などを務め、1945年8月6日に被爆死した山本利(とおる)さんの足跡を、次女の常石登志子さん(77)=横浜市=がたどり、「戦時下の恋文」(写真・てらいんく刊)にまとめた。両親が交わした恋文に、現在の視点から私見を加えながら、戦時の様相や原爆が奪った人間の営みを今に伝える。
「生まれたときすでにいなかった父を知りたくて」。常石さんは、広島県府中町の実家を整理中に見つけた漆塗りの文箱を取り出した。母百合子さん(2017年に97歳で死去)が大切に保管していたもの。恋文計137通と利さん自作の小説などが収められていた。
利さんは当時の中国新聞社社長山本実一氏の長男。東京帝国大卒業後に同盟通信社を経て従軍。ビルマ(現ミャンマー)にも赴いた。除隊後は編集局長を務めるも45年3月に再び召集。陸軍報道部将校となった。爆心地にほど近い中国軍管区司令部で朝礼中に被爆したとみられ遺骨も見つかっていない。29歳だった。
府中町に疎開していた百合子さんは直爆は免れたが、翌日から3日間爆心地付近で帰らぬ夫を捜し回った。そのとき胎内にいたのが常石さんだ。
恋文は両親が婚約中から新婚時代の38~40年の往復書簡。利さんは軍隊生活の合間に百合子さんを思う気持ちなどをつづる。「ジャーナリストなのに戦争や軍部に対する批判めいた記述は見当たらない」と常石さん。当時のメディアが「戦意高揚の協力者」だったことも改めて感じたという。
一方、百合子さんははつらつと読んだ本の感想などを利さんに伝える。「戦後の母は気力を失ったかのようで本を読む姿は見たこともなかった。手紙の中の母は別人のよう」と話す。「最愛の夫が突然消え、市内の惨状も目の当たりにした。原爆が母の人生に長く影を落としたのだろう」
本書では生前の百合子さんから聞いた話や文献などを参照し、利さんの被爆状況を、想像も加えて再現。後半には36通の恋文をそのまま収めた。
常石さんは「両親の恋文を読むのは面はゆかったが、核使用の危機が言われ国内外で軍拡が進む今、示唆に富む。私たちは感覚を研ぎ澄まさなくては」と語る。四六判、264ページ。1870円。(森田裕美)
(2023年10月9日朝刊掲載)
「生まれたときすでにいなかった父を知りたくて」。常石さんは、広島県府中町の実家を整理中に見つけた漆塗りの文箱を取り出した。母百合子さん(2017年に97歳で死去)が大切に保管していたもの。恋文計137通と利さん自作の小説などが収められていた。
利さんは当時の中国新聞社社長山本実一氏の長男。東京帝国大卒業後に同盟通信社を経て従軍。ビルマ(現ミャンマー)にも赴いた。除隊後は編集局長を務めるも45年3月に再び召集。陸軍報道部将校となった。爆心地にほど近い中国軍管区司令部で朝礼中に被爆したとみられ遺骨も見つかっていない。29歳だった。
府中町に疎開していた百合子さんは直爆は免れたが、翌日から3日間爆心地付近で帰らぬ夫を捜し回った。そのとき胎内にいたのが常石さんだ。
恋文は両親が婚約中から新婚時代の38~40年の往復書簡。利さんは軍隊生活の合間に百合子さんを思う気持ちなどをつづる。「ジャーナリストなのに戦争や軍部に対する批判めいた記述は見当たらない」と常石さん。当時のメディアが「戦意高揚の協力者」だったことも改めて感じたという。
一方、百合子さんははつらつと読んだ本の感想などを利さんに伝える。「戦後の母は気力を失ったかのようで本を読む姿は見たこともなかった。手紙の中の母は別人のよう」と話す。「最愛の夫が突然消え、市内の惨状も目の当たりにした。原爆が母の人生に長く影を落としたのだろう」
本書では生前の百合子さんから聞いた話や文献などを参照し、利さんの被爆状況を、想像も加えて再現。後半には36通の恋文をそのまま収めた。
常石さんは「両親の恋文を読むのは面はゆかったが、核使用の危機が言われ国内外で軍拡が進む今、示唆に富む。私たちは感覚を研ぎ澄まさなくては」と語る。四六判、264ページ。1870円。(森田裕美)
(2023年10月9日朝刊掲載)