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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅷ <16> 変わる政党 軍に追随 チェック総崩れ

 「満蒙(まんもう)は我が国の生命線」。山口2区選出の政友会衆院議員松岡洋右(ようすけ)が昭和6(1931)年1月の国会質問で使った標語は、同年9月勃発の満州事変で日本中に広まった。

 政権政党として当初は事変の拡大抑止に努めた民政党も、政権崩壊後は戦争熱の高まりに抗しきれなくなる。「日中の共存共栄」論は尻すぼみとなり、関東軍の戦線拡大を追認した。

 対外強硬路線の政友会の総裁ながら軍部独走を止めようとした犬養毅首相は昭和7(32)年の五・一五事件で横死した。政友会は軍への追随を強め、関東軍が建国した満州国の承認を後継の斎藤実(まこと)内閣に迫った。

 普通選挙で有権者は4倍に増えたが、同年2月の衆院選で無産政党が得たのは5議席。労働者や小作農民の多くは景気回復を訴えた政友会に投票した。

 事変前は中国進出に批判的だった社会民衆党は、社会主義的な満蒙管理を条件に事変を肯定した。議会で多数を占める当てはなく、軍と親密な赤松克麿(かつまろ)書記長らは脱議会主義を志向する。同年5月に離党して国家社会党を結成した。

 出来たての同党本部を訪れたフランス人記者に赤松は「満州は日本の労働者にとって不可欠」と言い、反資本主義的な青年将校と協力し「日本に満州を含めた社会主義国家が実現される」と自信を見せた。同記者に社会民衆党の安部磯雄委員長は「あの若者たちは自分が何をしているのか分かっていない」とこぼした。

 全国労農大衆党は帝国主義戦争反対を掲げたが、党内に満州事変容認論も出て徹底には程遠かった。事変を批判した共産党は治安維持法の標的とされ、一斉検挙で大打撃を受けた。

 満州事変の渦中で、軍をチェックすべき政党そして新聞もほぼ総崩れとなる。昭和不況と凶作下で新天地を求める機運が膨らみ、斎藤内閣は同年9月に満州国を承認した。国際的孤立への道だった。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅷおわり

満州国
 関東軍が昭和7年3月に建国。溥儀を執政(後に皇帝)とし「漢満蒙朝日」の五族協和をスローガンに掲げたが、日本による傀儡(かいらい)国家だった。首都は長春、面積は日本本土の約3倍。

(2023年10月11日朝刊掲載)

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