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社説・コラム

追悼・西本瑛泉 作陶人生 一筋に歩む 縄文の美 現代に再生

 陶芸家西本瑛泉は9月28日に死去した。追悼記の求めにためらいを覚えたが、本名は知(さとる)という父の息遣いにも接してきた者として歩みを記したい。

 瑛泉が「芸州焼」を現在の広島市佐伯区で開いたのは1953年、戦争が終わって8年後だ。10代が戦時下や戦後の混乱期にもかかわらず、こう思っていたという。「美術を通じて、人間修行をしよう、自己を表現しようと考えていたわけです」。後年、専門誌で答えていた本人の弁である。

 広島県美術展で受賞を積んで60年に国内最大の総合美術展、日展初入選を果たす。「廃墟(はいきょ)に起(た)つ」と題し、母子が起立する姿を赤茶色で焼成した。45年8月6日の原子雲は宮島の対岸で目撃していた。築窯の2年後に見合いで結ばれた一つ年下の妻は被爆していた。

 ろくろに日曜日も向かい、酒もたばこもたしなまない。造形作品だけでは暮らしは成り立たず、急須やとっくりなどの注文品もこなした。雑事や家庭は妻に任せ、息子3人の入学・卒業式へも足を運んだことはなかった。

 昭和の父親の多くがそうであったように仕事がすべて。自分が選び取った道を何より重んじた。

 社交的には口数少なく穏やか。とはいえ、「人生は死ぬまで修行だ」と筆者(長男)はことあるたび説かれ閉口させられたが。受賞歴が増すにつれて作陶活動の土台は確かなものとなった。人との縁にも恵まれた。

 広島県北で出土した土器の破片を手にした70年代から、焼き物の始まりといえる縄文時代の美をモチーフに、今を生きる人間の想念をも造形する作品を発表していく。

 日本芸術院賞・恩賜賞を「玄窯縄文譜『黎明(れいめい)』」で授与されたのは99年。各受賞者から特に選ばれる恩賜賞まで手にしたのは望外の喜びであった。80代に入っても作陶精神は旺盛で米寿の個展では、「ひろしま平和祈念 救世観音菩薩(ぼさつ)」という作品も焼成した。

 自宅で転倒した7日目に逝った。享年95。拾骨を待つ間、五右衛門風呂に一緒に入っていた頃、よく口ずさんでいた「王将」の歌詞がよぎった。「〽明日は東京に出てゆくからは なにがなんでも勝たねばならぬ」

 窯元としては初代。加えて、美術全般の伝統や人脈が豊かとは決して言えない広島の地から、東京という中央に挑む気概の表れだったのだろう。

 肉体は滅したが、作品は芸術院をはじめ各方面に残る。窯は三男直文が継ぎ作家で歩む。法名は「釋(しゃく)瑛泉」。作陶一筋を見事に生き抜いたと思う。 (元特別編集委員・西本雅実)

(2023年10月12日朝刊掲載)

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